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消えた「新鎌倉」 神奈川・大船、幻の田園都市計画

2015/11/20

東京近郊の田園都市と聞いて、どこを思い浮かべるだろうか。高級住宅地の代表格、東京都大田区の田園調布? それとも東京急行電鉄の田園都市線? 実は鎌倉市北西部にある大船にもかつて、田園都市計画があった。その名も「新鎌倉」。壮大な構想は実行に移され、今も痕跡が一部に残る。大正末期に進められた理想の街づくり。その全貌を追った。
大船駅周辺には「田園」と名の付いた場所がたくさんある

■宅地や工場、野外劇場を分散配置 敷地は10万坪

JR東京駅から電車で約50分。鎌倉市と横浜市の境界付近にある大船は、東海道線と横須賀線の分岐点に位置する交通の要衝だ。

初めから栄えていたわけではない。大正時代のある計画が端緒となった。「大船田園都市計画」だ。

「大船田園都市は理想の住宅地を目指していました」。鎌倉市中央図書館近代史資料担当の平田恵美さんは語る。

1922年(大正11年)発行の「田園住宅図集」にその理想の一端が垣間見える。計画地は大船駅東口から東山にかけてのエリア。東山とは現在、鎌倉女子大学の裏手にある丘陵地だ。敷地は約10万坪あったという。

大船田園都市の計画図案。中心部のロータリーを挟んで、左が碁盤の目状、右が放射線状の街路になっているのが分かる。左下が大船駅(「田園住宅図集」より。鎌倉市中央図書館提供。わかりやすくするため、画像を90度、右に傾けた)

計画地の中心には「夕日ケ丘」と書かれたロータリーがある。そこから駅までは碁盤の目状に道路を整備し、ロータリーから東山にかけては放射線状に住宅地が広がっている。放射線状の街並みは、田園調布を思わせる。

「夕日ケ丘」の周りにはクラブハウスや小学校、運動場、共同倉庫などがあり、居住者が集まる空間を意識している。クラブハウスの中には美術館を計画していた。駅前には商店や工場、倉庫、テニスコートなどを配置。東山には野外劇場ができる予定だった。

これほどの壮大な構想はどこから出てきたのか。誰が主導したのか。

■昭和金融恐慌の当事者、渡辺家が主導

大船田園都市が売り出した住宅の復元模型。日本大学藤谷研究室が制作した。道路から少し奥まった場所に住宅を配置したり、豊富な緑地を整備したりと理想の一端が垣間見える(鎌倉市中央図書館所蔵)

大船田園都市については、日本大学生産工学部の教授だった藤谷陽悦氏の研究が詳しい。「大正期における東京近郊の田園都市事業に関する研究―大船田園都市株式会社の活動を通じて」など藤谷氏の一連の論文から、計画の経緯を解き明かしていこう。

「大船田園都市株式会社は昭和2年の大恐慌の発端を引き起こした渡辺家によって、大正10年に創設された土地建物会社である」。藤谷氏は論文の冒頭、こう記す。

歴史に詳しい人ならピンときたかもしれない。渡辺家とは、東京渡辺銀行を設立した一族だ。

1927年(昭和2年)3月14日、当時の片岡直温蔵相が議会で「東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました」と発言し、取り付け騒ぎが起きた。これが金融恐慌の引き金を引いた。このときの東京渡辺銀行専務、渡辺六郎氏が、大船田園都市構想の主導者だ。

渡辺家は当時、東京屈指の大富豪として知られていた。1908年(明治41年)の調査によると、東京で5番目の大地主だったという。1890年(明治23年)の丸の内の払い下げでは、岩崎家と競ったともいわれている。渡辺家が丸の内を落札していたら、東京駅前は全く違う風景になっていたかもしれない。

ちなみに、大船田園都市株式会社の取締役に、福原信三氏の名前があった。資生堂初代社長だ。渡辺家に次ぐ大株主でもあった。大船田園都市は1922年に住宅展覧会を東京・銀座の資生堂ギャラリーで開いており、関係の深さがうかがえる。戦後、大船に資生堂の工場ができたのもこうした縁だったのかもしれない。

■なぜ大船? 交通・気候・水・物価など条件合致

東京で財をなした渡辺家がなぜ、大船に目をつけたのか。大船田園都市株式会社の「創立趣意書」には7つの理由が書いてあった。

一般向けに発行した小冊子「新鎌倉案内」。大船田園都市の理念や住宅規定などが書いてある(鎌倉市中央図書館提供)
(1)交通が便利
(2)気候が温暖で空気が澄んでいる
(3)飲用水が良好
(4)排水工事などが容易
(5)別荘地ではなく人の気質が素朴で物価が安い
(6)海にも山にも近く行楽に便利
(7)土地が安い

大船はすべての条件を満たした理想的な場所だったのだ。

当時の大船はどんなところだったのか。渡辺六郎氏の長男、秀氏が2000年、鎌倉市中央図書館主催の展示会「幻の田園都市から松竹映画都市へ」でこんな証言を残している。

「とんだ所に来たものだと思いました。大体商家は1軒もございません」「その頃田園にはたしか13軒の家がありました」

東京に住んでいた渡辺六郎一家は1924年(大正13年)、東京から大船に移った。「事業をやる上で経営者になるものは、率先垂範をして範を示さないと人がついてこない」という六郎氏の信念だったようだ。ほとんどゼロから都市をつくり上げていったことがうかがえる。

■高さや緑地帯など厳しい住宅規則

街づくりにかける情熱は、建物にも反映された。大船田園都市は街づくりについて、厳しい規則を定めた。一般向けの冊子「理想的住宅地 新鎌倉案内」をひもといてみよう。ちなみに「新鎌倉」とは大船田園都市を売り出すに当たって付けた名前だ。定着していたら、今ごろ大船駅は新鎌倉駅と呼ばれていたかもしれない。

「吾が新鎌倉は美しき町たることを期します。従ってどんな形の家でも建てて宜しいとは申されません」

こう記した上で、以下のような基準を設けた。

(1)外観はすべて洋風
(2)建築面積は宅地面積の3分の1を超えてはならない
(3)高さは宅地面上より14mを超えてはならない
(4)建物は道路と宅地との境界線より後退させる(道路ごとに間隔を設定)
(5)隣地境界線と建物の間を0.9m以上とする
(6)宅地が道路に接する側には芝生帯を設ける
(7)板塀などは造らない

……などなど。実に細かく規定してある。要するに、ゆったりとした街並みを演出しようとしたのだ。

大船田園都市が分譲した住宅。1軒だけ現存している。もともと小池氏が住んでいたが、今は別の人が住んでいる(鎌倉市)

■当時の住宅、1軒だけ現存

鎌倉市中央図書館に、住宅の模型が残っている。日大の藤谷研究室が制作したものだ。道路から奥まった位置に建物を配し、敷地全体に緑が多い。圧迫感のないゆったりとした造りだったことが見て取れる。

当時建てられた住宅はいま、1軒だけ残っている。模型の家と同じく、緑豊かな気品漂うたたずまいだ。住宅の前には「小池邸」と書かれた説明板もあった。ただし現在は小池氏ではなく別の人が住んでいる。一般の家なのであまりジロジロ見ない方がよさそうだ。

■関東大震災と不況が経営圧迫 昭和3年に倒産

「新鎌倉」は大きく3区画に分けて整備された。第1期がロータリーから駅にかけての碁盤の目状の地区。第2期がロータリーから東山にかけての放射状の区域。そして第3期が駅周辺と第1期の南側の地区だ。

藤谷氏によると、第1期と第3期は土木工事を終え、上下水道などインフラが整備された。1925年(大正14年)11月には大船駅東口が完成。25年からしばらくは、ロータリーを予定していた辺りに競馬場もあった。

着々と整備が進んだように見えるが、実は経営は火の車だったようだ。藤谷氏の調査によると、宅地の売れ行きはよくなかったという。理由は大きく2つ。1923年(大正12年)の関東大震災で住宅地の一部が被害を受け、希望者が購入を控えたこと。そして昭和に入り不況に突入してしまったことだ。

大船田園都市のマンホール。中央部分に「ogc」の文字が見える。大船ガーデンシティーの略称だ。鎌倉市中央図書館に保存されている

理想を高く掲げた大船田園都市計画だったが、タイミングが実に悪かった。不況は金融界にも及び、東京渡辺銀行も資金繰りが悪化。そしてあの失言騒動へとつながっていく。1928年(昭和3年)夏、大船田園都市会社は倒産した。

■夢を引き継いだ松竹 今も残る「田園」の名

その後、大船はどうなったのか。1934年(昭和9年)、松竹が土地を取得した。松竹の社史、「松竹百年史」によると、9万坪を得て、うち3万坪を撮影所用地、残りの6万坪は「田園都市住宅地として一般に分譲」したという。大船田園都市会社の倒産から6年、「田園都市」の名はまだ生きていた。

松竹大船分譲地のポスター(鎌倉市中央図書館提供)

松竹は1995年にテーマパーク「鎌倉シネマワールド」を開設するも3年で閉鎖。2000年には撮影所そのものも終わりを告げる。跡地は現在、ショッピングセンターや鎌倉女子大学などになっている。ちなみに松竹が設置していた渥美清さんと美空ひばりさんの壁画は老朽化が激しく、この10月に撤去された。同社内で保管しているという。

JR大船駅東口を出てぶらぶら歩いてみると、「田園」を冠した場所がいくつかあった。「大船田園眼科」や「田園薬局」「田園踏切」などだ。地図を見ると、この辺りはきれいな碁盤の目状になっている。

「大船田園都市計画は、大船近代化の基礎を築いた」。鎌倉市中央図書館の平田さんは評価する。道路や上下水道など都市基盤が整備されたからこそ、その後の繁栄があったともいえる。計画は道半ばでついえたが、街の骨格として今も人々を支えている。

(河尻定)

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