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照明デザイナーの母は「お仕事して夜帰ってくる人」石井リーサ明理さんに聞く

2015/11/6

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日経DUAL

世界的な照明デザイナー、石井幹子さんの一人娘で、名前は「明理(あかり)」。石井リーサ明理さんがお母さんと同じ照明デザイナーの道を歩んできたのはごく自然なことのように思えます。しかし、実際にお母さんと同じ職業を選ぼうと決めたのは、意外にも20代になってからでした。幼いころ、国内よりも先に世界でその実力を認められた石井幹子さんは海外でのプロジェクトが多く、不在がちでした。そんなお母さん不在の時間を明理さんはどんなふうに過ごしていたのでしょうか。

母は椅子から落ちそうになるくらい驚いた

―― 「明理」というお名前にはお母さんの深い思いが込められていますよね。

よく「アーティストネームですか」と聞かれるのですけれど、本名なんですよ。私が生まれたとき、母は他にいい名前が思い浮かばなかったのですかね。(笑)

―― やはり小さいときから、お母さんと同じ仕事をしたいと考えていたのですか。

パリと東京を拠点に活躍する照明デザイナーの石井リーサ明理さん

いいえ、大学院に行くまで全然思っていませんでした。大学院に入って、デザインの勉強をしにパリに留学したときに、光の街と言われているパリで、最先端の照明デザインを手がけている方に色々とご指導いただく機会があったのです。そこで、光に強く興味を持ちました。光は、建築にも写真にも、映画にも絵画にも共通する大事なテーマです。もともとクリエーションの仕事を志していましたので、光を使ったクリエーター、すなわち照明デザイナーになりたいと思うに至ったのです。

そこで日本に帰国してから「照明デザインをやりたいと思う」という話を母にしたところ、母は椅子から落っこちそうになるくらい驚いていましたね。

―― つまり、お母さんは明理さんが同じ照明デザイナーになると期待していなかったと。

そうですね、そういう気配がなかったからだと思います。東京芸大の美術系の学部で建築とか都市計画を真剣にやっていましたし、大学院まで行ったので、父(法制史学者の石井紫郎さん)と同じ研究職を目指すことも考えてはいましたから。ですから、母も驚いたのでしょう。私が23歳のときです。

―― 明理さんの生まれる3年前の1968年、石井幹子デザイン事務所を設立したお母さんは、70年の大阪万博や75年の沖縄海洋博の照明デザインを手がけるなど、日本国内はもちろん世界を舞台に活躍していました。幼心にどんなお母さんと受け止めていましたか。

ごく普通に、「お母さんはお仕事をしていて、夜帰ってくる人」という受け止め方でした。照明はどうしても、日が落ちて暗くなってからの調整や実験が必要なので、帰宅が夜遅くなるときも多い。逆に父は大学で教える研究者でしたので、帰宅は割と早く、晩ごはんは父と二人ということが多かったですね。

―― 学校であった出来事などを話すのも、夕食のときにお父さんに。

日常的な学校での出来事は、祖母に話していました。祖母は一緒に住んでいなかったのですが、学校から帰ってくる時間帯には家に来てくれていて、「おかえりなさい」と迎えてくれました。そして、おやつを食べさせてくれて、習い事のことを見てくれたりもしました。身の回りのことをしてくださる方が長く一緒に住んでいて、その方ともよく話をしていました。

家に迎えてくれる人をと担任がアドバイス

―― 家で明理さんを誰かが迎える、というのはお母さんの方針だったのでしょうか。

私の小学校の担任の先生が母に、「お嬢さんの帰宅時に『おかえりなさい』と言ってくれる人にいてもらうのがいいのではないでしょうか」とアドバイスしてくださったのです。それで母が祖母に頼んで、毎日家に来てもらうことにしました。そうした日常の出来事を話せる相手がいたことは、私にとってすごく大事だったように思います。

母の母校である国立お茶の水女子大学附属の幼稚園から高校まで通った

ラッキーなことに、私のその担任の先生はかつて母の担任でもあり、働く母のことをすごく思ってくださる方でした。ですが幼稚園のときは、同じ学年でお母さんが働いていたのは私とあと一人くらいでしたので、母も随分苦労したようです。

子どもってみんな変わっているじゃないですか、一人一人。ところが、私が変わっているのは「お母さんが働いているせい」という見方をされたようなんです。それが母としてはつらかったと思います。

―― 子ども心に、お母さんが苦労していると思われたのですか。

いえ、当時は子どもでしたからよく分かっていませんでした。むしろ私は私で、周りから「お母さんがいなくて明理ちゃんはかわいそうね」と言われていたので、「私はかわいそう」と思っていた…というか思わされていた時期もありました。

周囲にそう言われると、子どもなので「ああ、私はかわいそうなんだ」と思ってしまうのですよね。そういう社会的なステレオタイプの押しつけが子どもに反映していた例かなと、今になって思います。

ある程度大きくなってから、「どうしてママはお仕事をするの?」と聞いたんです。4~5歳だったと思うのですけど。

そうしたら「ママはね、あなたが生まれる前からお仕事していたのよ」と言われて、ガーンと衝撃を受けました(笑)。「ええ、そうだったんだ」と。私より先行しているものがあるということ、そもそも母に、自分が生まれる前の時間があった、ということをそのとき初めて子どもなりに認識して、ダブルでショックでした。

そう言われて、じゃあ、しょうがないと納得してしまいました。

「そんなことでは仕事が来ませんよ!」と叱られた

―― 明理さんが照明デザイナーになるとお母さんは思ってもなかったとのことですが、職業は何であれ、自立して働くことは大前提として家庭の教育にありましたか。

すらりと背が高い明理さん、小学校の卒業時にはすでに167cmあったという。背筋がピンと伸びているのは日ごろ習っているダンスの効果

そうですね。学校で部活動を選ぶときも、「柔道ならば将来海外に留学して万が一仕送りが途絶えても、道場でアルバイトできる。そのほうが皿洗いするよりも絶対に時給は高いわよ」と言われて、「なるほどねえ」と思いました。実務的というか実践的なアドバイスをもらいました。

小さいころに「そんなことでは将来、仕事が来ませんよ!」と母に怒られたこともありました。子どもだった当時はポカンとしてしまったので、余計によく覚えています。今になってみればたぶん、母自身がそういうことを考えていた時期だったんでしょうね。でも子どもに向かって「そんなことでは仕事が来ませんよ」って…。今では笑い話です。いったい何考えていたんでしょうね。(笑)

いずれにせよ、私が自立して働くことは大前提でした。私の祖父は戦争で亡くなったので、祖母は一人で子ども3人を育てました。そんななか、母はとにかく自立しなくてはいけないと子どものときからずっと思って育ったので、娘も当然、自立できるように育てなくてはと思ったのでしょうね。

―― しかも、海外に行くということも前提だったのですか。

そうですね、母自身は若いころにフィンランドとドイツに行っていましたし、父もドイツやアメリカで教え、研究していた時期があります。ですので、海外で勉強するのは当然、という空気が家の中にはありました。私自身、中学くらいから海外に行きたくて行きたくて、でも中学ではダメと言われて、高校でもダメと言われて、大学でもダメと言われて、ようやく大学院に入ったのでさっさと自分で留学に出てしまいました。

―― 海外に行くのは当然、という家庭だったのに、留学はダメだったのですか。

夏休みを利用した短期留学などは、ほぼ毎年させてもらっていました。けれど、例えば高校から海外に出てしまうと日本人としての根っこがなくなるから、大学受験まではちゃんと日本でしろと、父が言ったのです。そして大学に入ったら、今度はちゃんと卒業論文を出すように、と。父は大学で教えていましたから、そういうことは厳しくて、母ももっともだと思ったのでしょうね。

―― 教育の問題一つとってもお父さんとお母さんの意見は同等だったのですか。

高校まで私が通ったのは母の母校でもありましたから、学校については母の意見が強かったですが、父も教育者でしたから同等な感じでした。そして私も、早い時期から家では1票持っていました。割と私の意見も尊重してくれて、デモクラシーといいますか(笑)。

2週間の海外滞在でまとめてしつけ

―― お母さんに対して反発を覚えたことは。

それはですね、家にずっといる母ではなかったので反抗のしようもなく、反抗期がなかった。勉強しろとも言われませんでしたし。言われなければ反発のしようもない。

―― 勉強しろとは言われなかったのは、信頼されていたんでしょうね。

どうなんでしょうか。父には、勉強のことよりも部活は体育会系の運動部に入るよう言われました。私は中学と高校は柔道をやっていて、黒帯も持っていて、東京都3位だったりしました。色々やりましたけれど、柔道が一番楽しくて。学校が終わってから道場へ行って、帰ってきてから宿題をして寝る私の生活も忙しく、反抗したりする暇はなかったですね。一人っ子ですから自分一人の世界で遊ぶのも苦にならず、絵を描くことも好きでしたし。

ただ、長い休みのときは、当時母の事務所がロサンゼルスにもあったので、一緒についてアメリカに行き、その機会にまとめて母に「しつけ」をしてもらいました。

子どもには、「あのときこうやったのはダメだった」と後からいくら言ってもピンとこないから、そのときにピシャッと叱らないといけない、と母は言うのです。だから、ずっと一緒にいる2週間とか3週間に、母にまとめて仕込まれました。ナイフとフォークの使い方、立ち居振る舞いなど、ごく基本的なことです。外国ではパーティーのときに壁に寄りかかってはいけない、とか、挨拶をするときには笑顔でとか、必ず「Thank you」と言う、とか。すごく簡単なことだけれど、こちらも海外にいて不安ですから、「なるほど」と素直に聞けました。

―― 海外で仕事をするお母さんを見て、ますます尊敬しました。

そうですね。「ママすごい、英語ができるんだ」というのはありましたね。今でも、ドイツに行くと急にドイツ語を話し出すので、「すごい、まだしゃべれるんだ」と驚きます。「忘れないものなのよ」と母は言いますが。

石井リーサ明理 (いしい リーサあかり)
 照明デザイナー。東京生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。ハワード=プランストン&パートナーズ社 (ニューヨーク)、 石井幹子デザイン事務所を経て、1999年、パリのライト・シーブル社に勤務 。 2004年にI.C.O.N.設立。現在パリと東京を拠点に、世界各地で都市、建築、インテリア、イベント、展覧会、舞台照明のデザインを手掛けると同時に、写真・絵画製作、映像・音楽プロデュース、講演、執筆活動も行う。主な作品は、ポンピドー・センター・メッツ、バルセロナ見本市会場、トゥール大聖堂付属修道院、歌舞伎座等。フランス照明デザイナー協会正会員。国際照明デザイナー協会会員。著書に『都市と光 ― 照らされたパリ』(水曜社)他。

(ライター Integra Software Services)

[日経DUAL 2015年9月7日付の記事を再構成]