緊張すると「食べ物がのどを通らない」のはなぜ?
大事な取引先の接待や偉い人との会食といった、緊張しがちな場面では、「食事がのどを通らない」ことがよくある。いくらかんでもなぜか食べ物をうまくのみ込めないし、味もよく分からない。皆さんも経験があるだろうか?
一時的な現象ならまだいいが、仕事のストレスや人間関係の悩みなどが続くと、そんな状況が長引くこともある。若い人なら、恋愛の真っ最中に、そんな経験を味わうかもしれない。
どうして、緊張すると食べ物の通りが悪くなるのだろう? のどが狭くなるのだろうか?
「いえいえ、緊張によって変化するのは、のどというよりも、唾液です」
こんなふうに説明を始めたのは、日本大学歯学部教授で、摂食機能の専門家である植田耕一郎さん。いわば「食事がのどを通る」現象のプロだ。今回は、植田さんの解説で、「緊張」と「食事」の微妙な関係をみていこう。
緊張すると、唾液が減ってネバネバになる
唾液は、唾液腺から口の中に分泌される液体。健康な人では1日に1~1.5リットルも出ている。
植田さんによると、唾液には「サラサラ唾液」と「ネバネバ唾液」という2種類があるという。
「サラサラ唾液は文字通りサラサラの性状。ほとんど水分でできています。一方のネバネバ唾液は、ムチンという成分を含んでいて、粘り気が強いのが特徴です」
そして、どちらの唾液が主に出るかは、自律神経によって決まる。自律神経のうち、体をリラックスさせる副交感神経が優位に働くときは、主にサラサラ唾液が分泌される。これに対して、体を緊張させる交感神経が活発なときは、主にネバネバ唾液が分泌されるのだ。
「だから、緊張すると口の中の粘り気が強くなります。『固唾をのんで見守る』という表現がありますが、この『固唾』というのが、ネバネバ唾液のことです」(植田さん)
さらに、分泌量も変化する。「ネバネバ唾液は、サラサラ唾液より分泌量がずっと少ないのです」(植田さん)。そのため、交感神経が優位になってネバネバ唾液が中心のときは、唾液の総量がかなり減ってしまう。すると感覚的には、口の中はむしろ乾いているような感じになるという。
「通常、食事というのはリラックスタイムですから、副交感神経が優位になってサラサラ唾液がよく出るもの。サラサラ唾液には、口に入った食べ物を湿らせ、のみ込みやすくする働きがあります。でも、緊張して交感神経が強く働いてしまうと、ネバネバ唾液中心になって唾液量が減り、口の中が粘つく。だから、のみ込みにくいのです」と植田さん。
なるほど、食事ののどの通りを左右するのは、唾液だったのか。
ネバネバ唾液になると、味覚が鈍くなることも
「唾液が変化すると、味の感覚も変わります」と植田さんは話を続ける。ほう、それはどういうことでしょう。
味覚を感じるのは、舌にある味蕾(みらい)という器官。この表面の受容体が食品中の味成分を感知するのだが、このとき、唾液が重要な働きをしているという。
「食品中の成分は、唾液に溶けることで、味蕾と反応しやすくなるのです」(植田さん)
リラックスしているときは、サラサラの唾液がたっぷり出てくるため、成分がよく溶けて繊細な味でも敏感に感じられる。だが緊張すると唾液量が減り、ネバネバしてくるので、味の成分が溶けにくくなる。そのうえ味蕾がネバネバ成分に覆われてしまうため、味覚が鈍くなるのだ。
実際、緊張しているときにものを食べても、味がよく分からないのはよくあることだ。このため、食はますます進みにくくなる。
「そうなると今度は、味覚の刺激が欲しくて、強い塩味やこってり味など、極端な味が食べたくなることも多いです」と植田さんは言う。確かに、ストレスがたまったとき、がっつりこってりした味に走るのも、ありがちなパターンだ。あれは鈍った感覚を刺激しようとしているのか。
緊張しがちな会食の前には、歯を磨こう
仕事の事情などで、緊張する会食をしばしばこなさなくてはいけない人も多い。何かいい対策はないだろうか。
「手軽なのは、食事の前に歯を磨くことですね」と植田さん。
えっ、歯磨き、ですか?
「ええ、口の中を物理的に刺激することで、唾液の分泌量が増えます。刺激が目的ですから、ペーストを使う必要はありません。小型の電動歯ブラシなどを携帯しておいて、さっと一通り磨けば、気分もすっきりして、サラサラ唾液がよく出るでしょう」(植田さん)
これは、エチケットの面でも有効だという。というのも、唾液には口の中を洗浄する働きがある。緊張状態が続くと、唾液の量が減って口臭が強くなりやすいのだ。もし夜の会食に向けて日中ずっと緊張していたとすれば、口臭が強まっている可能性がある。「そんな場合でも、歯を磨いて唾液量が増えれば、口臭はすぐに収まります」と植田さん。
なるほど。これはいい方法を聞きました。
もっとも、一時的に緊張するだけなら、会食が終わればリラックスできるので、さほど心配はいらない。
「問題は、『食事がのどを通らない』状態が長く続いているケースです」と植田さん。
唾液量が慢性的に減って、食事に支障が出たり、口の中が傷つきやすくなる現象は「ドライマウス」と呼ばれる。自己免疫性の病気や薬剤の副作用が原因で起きることも多いが、そういった明確な原因が見つからない場合、ストレスが長期化している可能性も考えられる。
「食事がのみ込みにくいというのは、ストレスを知らせる体からのメッセージかもしれません。何か無理をしていることがないか、自分の日常を振り返ってみてください」(植田さん)
日ごろからおいしく味わって食べることが、究極の対策
ところで植田さんは、脳卒中などが原因で摂食機能に障害を抱えた人の診療で、「食べる機能」の不思議さをしばしば体験するという。
「医学的な診断では『機能障害のため自力で食べるのは無理』と判定されるような人でも、しばしば好物だけは食べられるのです」(植田さん)
介護をしている家族などに聞くと、「何も食べられません、トロ以外は」などという答えが返ってくることも、よくあるそうだ。
「要は、『食べたい』『おいしい』という気持ちがあれば、きちんと唾液が出て、すんなりのみ込める。摂食機能に問題がある人でさえ、そうなのです」(植田さん)
うーむ。では逆に、健康なのに「食事がのどを通らない」のは?
「『おいしく食べる』というところから、あまりにも遠ざかってしまった姿といえるかもしれませんね」(植田さん)
植田さんは、自戒を込めてこんな話をしてくれた。
「私自身、忙しい診療の合間に『何か食べておかなきゃ』と思ってパンをかじったりすると、味もろくに感じないし、のみ込むのにも苦労します。そんなときは、食べることを雑に扱ってはいけないと反省させられます」
つまり、食を大切にして、じっくりと味わうことが、「食事がのどを通らない」現象への究極の対策ということだろうか。
「そう思います。最近話題の、おじさん俳優が一人メシを味わうドラマがありますが、あんなふうに食べるのが理想ですね」
ほーなるほどー。忙しい毎日の中で、毎食あそこまでやるのは難しいでしょうけれど、できるところから心がけていきましょう。
(北村 昌陽=科学・医療ジャーナリスト)
日本大学歯学部摂食機能療法学講座教授
1983年日本大学歯学部卒。日本大学歯学部助手、東京都リハビリテーション病院医員、新潟大学歯学部加齢歯科学講座助教授を経て現職。日本摂食嚥下リハビリテーション学会理事長。著書「長生きは『唾液』で決まる」「『口』ストレッチで全身が健康になる」など。
健康や暮らしに役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。