搭乗拒否、許されなかった一言

裁判記録をとじた厚いファイルを開き、埋もれた事案に目を向けてみれば、当事者たちの人生や複雑な現代社会の断片が浮かび上がってくる。裁判担当記者の心のアンテナに触れた無名の物語を伝える。

「テロ」――。その言葉の重みを理解していたのだろうか。過去の悲惨な事件による犠牲者、凶行を防ぐための努力に、思いは及ばなかったのだろうか。空港のカウンターで発した軽口によって搭乗を拒否された男性が、ふいになった海外旅行の代金の返還を求めて訴訟を起こした。

年末年始の日程で旅行会社が企画した「黄金の都ミャンマー周遊5日間の旅」の出発日。1人でツアーに申し込んだ70歳代の男性が、成田空港のチェックインカウンターを訪れた。応対した航空会社の若い女性は慣れておらず、手続きに手間取った。

空港のカウンターで「私がテロリスト…」

「私がテロリストなのでそれほど時間を費やしているのですか」。いら立ちに海外旅行を前にした高揚感も混じっていたのかもしれない。「私は指名手配されているから十分にチェックしなさい」と男性は続けた。

別の社員が駆けつけて搭乗券はすぐに発券されたが、社員は男性に「そこの椅子に座って待っていてください」と告げた。待機していた男性の前に現れたのは警察官だった。

「テロリストという言葉を使いましたか」。警察官の質問に、男性は「使いました」と認めた。周囲の警察官の数は徐々に増えていき、機内持ち込み用のバッグの検査が行われた。中から特に危険な物は見つからなかった。

警察官は男性に白い紙を渡し、「私はテロリストという言葉を使いました。今後は一切この言葉を使いません」と書いて署名するよう求めた。男性は「私はテロリストという言葉を使いました」と書いた後、「できる限り、この言葉は使いません」と書いた。

さらに航空会社の社員が1枚の誓約書を示した。そこには▽今後一切、不適切な発言はしない▽安全運航の妨げとなる行為は行わない――といった文言が並び、反省が見られない場合は搭乗を断ると記されていた。

署名を求められた男性は「拒むとどうなるのか」と尋ねた。「搭乗できない」との答えに「それは脅迫ではないか」と反発。「規則でそうなっている」と重ねて署名を求められると、「ニューヨークのケネディ空港では指紋や虹彩でテロリストを見分けるソフトを導入している。なぜそうしないのか」とかみついた。

やりとりを聞いていた警察官が「あなたは何も反省していないのか」と割って入り、男性は渋々、誓約書に署名。受け取った社員は男性を搭乗ゲートまで案内した。

ところが、一部始終の報告を受けた機長は男性の搭乗を認めなかった。「反省の様子が見られず、他の旅客を不安にさせる様子が見られる」というのが理由だった。搭乗拒否を告げられ、男性は「わかりました」と素直に受け入れた。

「軽い気持ちで言った冗談」と主張したが…

その後、男性は旅行会社に対し、参加できなかったツアーの代金返還を求める訴訟を起こした。「実際にテロリストが自分でそう言うはずはなく、一般人なら冗談だと簡単に想像できる」と主張。「軽い気持ちで言った冗談が搭乗拒否に至るとは想像できないから、搭乗拒否は不可抗力によるものだ」とし、全額の返還を訴えた。

旅行会社側は「ツアーに参加できなかったのは男性のせい。本来は1円も返す必要はないが、航空会社から返ってきた10万円を返金するなど誠実に対応している」と反論した。

結局、男性の言い分は通らなかった。地裁の判決は「2001年の米国同時多発テロ以降、空港施設と航空各社がテロ対策に力を入れていることは広く知られている」と指摘。「ひとたびテロをにおわす言動があったなら、安全確保に向けた何重もの点検が組織的に行われることになる。たとえ冗談でも真意を確認するのは困難で、最終的には機長が判断するしかない」とした。

そのうえで「真摯な反省の態度を示したとは認められず、自らの発言の影響を理解する様子もなかった」と男性を批判し、「搭乗拒否には理由がある。ツアーに参加できなかったのは男性の責任だ」と訴えを退けた。判決はそのまま確定した。

男性は総合商社や貿易会社に長く勤め、国際事情に通じていた。国際便も数え切れないほど利用してきたと思われる。経歴や経験から来る慣れが緊張感を鈍らせ、軽はずみなブラックジョーク騒動を引き起こしたのかもしれない。

(社会部 山田薫)

注目記事