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朝・夕刊の「W」

和田英 一切の妥協を許さぬ職人 ヒロインは強し(木内昇)

2015/9/6

女工という言葉は、どことなく暗い響きをはらんでいる。少女たちが家の貧困を救うため、遠くの工場に送られ、酷使の挙げ句病苦にあえぐ――そんな筋立てさえ浮かぶ。だが信州松代に暮らす和田英は女工の応募に勇んで手を挙げた。明治六年のことだ。

イラストレーション・山口はるみ ■「富岡日記」著す 1857~1929年。信州松代に生まれる。父は旧藩士で、明治期は区長職にあった横田数馬。明治6(1873)年4月から翌年7月まで官営富岡製糸場で伝習工女として勤める。帰省後、傷寒(腸チフスのような症状)でひと月ほど寝込むが、長野県西条村に開設された製糸場で技術教師を担う。さらに同11(1878)年操業始めた長野県製糸場で製糸教授に抜擢される。著書に「富岡日記」がある。

「十三歳から二十五歳までの女子を富岡製糸場へ出すべし」というのが、県庁からの通達だった。娘を女工にするなど人身御供も同じと、当時も恐れられていたため村人たちは応じない。ならば我が家から、と土地の区長が娘を差し出した。これが英である。

周囲に示しがつかぬとはいえ随分乱暴な話だが、当の英は大いに意気込んだ。富岡に行けば学問もできる、織物が作れる、なにより女子の身でありながら天下の御為に働ける。今で言うキャリア志向だったのだろう。勇躍乗り込んだ富岡製糸場で、彼女は貪欲に技術を吸収するのだ。

女ばかりの職場のせいか、厄介事も多い。出身地ごとにグループができ、反目がある。取締(女工たちの監督者)から贔屓されているのいないのと、悶着も再々。彼女たちは一様に、給金も扱いもいい一等工女を目指している。だが昇格までに、並々ならぬ労働と勉強に励まねばならず、そのためには快適とは言いがたい住環境でも健康を維持する必要がある。楽な行程ではないが、英は不思議と余裕を失わないのである。

脚気になった友人を介護し、揉める同僚をなだめ、指導者には感謝を忘れず、糸取りや糸揚げに熱心に取り組む。最先端の工場で西洋の技術を習得しているのだ、という誇りに満ちあふれているのだ。

富岡製糸場で一年三ヶ月働き、一等工女となった英は、その年の八月、故郷信州の西条村に新設された製糸場(のちの六工社)に技術教師として迎えられる。煉瓦造りで最新機器が導入されていた富岡と比べると遙かに旧式な工場である。扱う繭も良質なものばかりとは限らない。それでも英は、環境を言い訳にせず、一切の妥協をしない。その理由を、彼女はこう語っている。

「六工社の糸にむらがあったと言われましては、六工社の恥になります。小さく申せば六工社の恥、大きく申せば国の辱(はじ)」

富国強兵が唱えられ、西洋に追いつけ追い越せで産業が盛んになった時代である。そんな中、ひとりが手を抜けば大きな「辱」へ繋がると、当時まだ十代の女性が意識していたと思えば感慨深い。

周りや顧客がこれでいいと言っても、自らが納得するまでやるのが職人だった。そうした、細部まで妥協しない物作りこそが、日本人らしさではなかったか。次から次へと浮上する東京五輪にまつわる騒動を見ていると、この伝統的美徳は崩れてしまったのかと疑わざるを得ない。

英は、地道に働いて技術を会得し、職人の矜持を培った。簡単に情報が手に入る今、物作りの現場にありながら、もっとも注力すべき創作の過程まで簡略化するようになっていたとしたら、それは大変寂しいことである。

[日本経済新聞朝刊女性面2015年9月5日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

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