南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点
歴史新発見 鹿児島県喜界町・城久遺跡群
■カムィヤキ窯跡発見がきっかけに
九州南端から台湾にかけて弧状につらなる島嶼(しょ)群の南西諸島では、古くから表面が灰色をした素焼きの陶器が出土。日本本土の古代から中世にかけて使用された須恵器と似ていることから「類須恵器」と呼ばれていた。壺が多いが、甕(かめ)、鉢、碗(わん)などもある。
北はトカラ列島から南は波照間島や与那国島までが主な流通範囲である。鹿児島県本土でも見つかっているが、生産地不明で、どこで誰によって作られどのように流通したのか、手掛かりが長く見つからなかった。類須恵器に注目が集まったのは分布域が後の琉球王国の版図とほぼ重なるからだ。
この類須恵器は琉球文化圏全域で共通に見つかる最も古い遺物といえる。生産から流通、拡散の実態解明が進めば琉球王国の成立過程や実態の理解につながるのではないか、との期待がある。
生産現場跡が見つかったのは1983年、鹿児島県徳之島の伊仙町だった。東西約1.5キロ、南北約800メートルの範囲に約100基もの窯跡が確認された。詳細な分類の決着はついていないものの、地元で「亀焼(カムィヤキ)」と言われていたため、類須恵器はカムィヤキと呼ばれるようになった。南西諸島で最初の陶器生産はここで始まったのだ。
生産されたのは11世紀から14世紀にかけて。製作技法や窯の作り方、色調は朝鮮半島製の無釉陶器との類似点が多い。後期には中国的な要素が強くなってくるというが、「技術は陶工が朝鮮半島から徳之島に渡来して伝わった」との見方も専門家から出ている。
■ヤコウガイ交易の拡大
一方、奄美大島では90年代に入ってから、多くの遺跡でヤコウガイの貝殻を削った貝匙(さじ)や貝殻片などが大量に出土することが明らかになった。ヤコウガイは種子島・屋久島より南の海域でしか生息しない。貝匙はスプーン型をしているが、用途ははっきりせず、酒杯などに用いられたのではないかとされている。
奄美市立奄美博物館の高梨修学芸員の調査によると、ヤコウガイ大量出土遺跡では鉄器や外来土器も一緒に見つかっている(『ヤコウガイの考古学』)。18点の鉄器が見つかった小湊・フワガネク遺跡群は7世紀前半ごろとみられ、土盛マツノト遺跡(9世紀後半から10世紀前半)では30点以上もの鉄器、鉄滓(さい)、鞴(ふいご)の羽口を発見した。
それまで南西諸島での鉄器の使用は12世紀に入ってからとされてきただけに、大幅に時間をさかのぼる。鉄器が流入するにはそれにふさわしいだけの社会的経済的にまとまりがあり、一定程度の成熟した集団が必要。ヤコウガイを交換財として交易が広範囲にわたって行われていた可能性が指摘されている。
ヤコウガイは奈良時代から鎌倉時代にかけて工芸品の装飾技法として知られる螺鈿(らでん)の材料として多く用いられた。正倉院宝物などにも見られるが、平安時代には貴族に珍重されたといい、奥州平泉の中尊寺で使用されているのも奄美大島産が用いられたのではないか、との見解も少なくない。
奄美群島で古くから交易が行われたことをうかがわせる遺跡が相次いで見つかる中、規格外の大きな衝撃を与えたのが喜界島の城久遺跡群だ。
■質、量ともに驚くべき内容
喜界島は鹿児島県本土から南へ約380キロ、奄美大島の東約25キロの周囲50キロに満たない小さな島である。2002年から始まった一連の遺跡群の発掘調査で驚嘆するほかない遺物と遺構が次々と出土した。
城久遺跡群は喜界島の中央部の8つの遺跡からなり総面積計13万平方メートルに及ぶ。9世紀から15世紀にかけての遺跡で、最盛期は11世紀から12世紀前半にかけて。発掘した遺物は計約5万9000点にのぼり、喜界島で交易が活発に行われていたことを示している。
研究者たちに衝撃を与えたのは、まず基本的にほぼすべての遺物が島外から持ち込まれたものだったということだ。土師(はじ)器や在地の土器が圧倒的主体である奄美大島とはまったく状況が違っていた。
中でも、国衙(こくが)や官衙(かんが)といった当時の国の役所に相当する施設周辺でしか出土しない中国産の越州窯系(えっしゅうようけい)青磁が179点も出たことは、単なる辺境と思われた小島が実はそうではなく、当時の南西諸島海域で突出した位置を占めていたことを明確に物語っている。
また、朝鮮半島産の初期高麗青磁や無釉陶器の出土が特筆される。交易は朝鮮半島を含んだ環東シナ海を巡って行われていたことがうかがえるからだ。
それはカムィヤキが4000点余りと大量に出土したこととも関係する。カムィヤキ出土例としては生産地の徳之島と並び圧倒的な数量にのぼる。朝鮮系の技術が用いられたとされるカムィヤキの成立と、朝鮮半島産遺物が集中的に見つかったことには密接な関連があるとみるのは自然なことだろう。
さらに、長崎県の西彼杵半島で11世紀後半から生産されたことで知られる滑石製石鍋が約3600点、計83キロとこれも大量に出土している。滑石製石鍋は沖縄以南の宮古・八重山地方の遺跡で、カムィヤキや中国製陶磁器とともにセットで出土するケースが多い。いずれも喜界島経由でもたらされ、一大交易圏が形成されていた証しと受け取れる。
遺構としては、484棟もの掘立柱建物が確認された。掘立柱建物は木組みや屋根ふきの技術などの専門的な技術が必要。大型の建物にはそれに見合うだけの技術や資力を要する。南西諸島でこれほど膨大な数の建物跡がある遺跡がみつかったのは初めてだ。
中でも大規模建物跡が3~4棟まとまっていたとみられる建物群があり、その周辺で越州窯系青磁など古い外来系の陶磁器が出土していることから、古代日本国家の影響下にある施設があったと考えられる。
さらに、12世紀ごろとみられるやはり南西諸島では初めての砂鉄から鉄を作る製鉄炉跡が見つかった。鍛冶炉と炭焼き窯も含めると84もの炉跡が10世紀から12世紀前半頃にかけて作られた。愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授は「日本本土でもみかけないほどの集中ぶり」と指摘する。
このため、喜界島で生産した鉄が南西諸島に広まることで、農耕具や武器などとして普及、城久遺跡群での交易を拡大させる要因になったでのはないかとの見解も出されている。
城久遺跡群について立正大の村井章介教授(日本中世史)は「奄美大島周辺の遺跡では在地の兼久式土器が広く分布しているのに喜界島ではほぼないに等しい。古代日本はかなり早い時期から南島に関心を持っており、律令国家の出先そのものがあったかは不明だが、強いつながりがないとありえない遺跡」と指摘。「日宋貿易に関わる博多商人らの活動が活発化し、朝鮮や南西諸島の島々との交易が展開されたのだろう。武士と商人を厳密に区別しない方がいい。喜界島には当時最強の軍事力が備わっていただろう」と当時の状況をみている。
喜界町教育委員会の澄田直敏埋蔵文化財係長は「城久遺跡群に見られる様々な活動が古代から中世にかけての南西諸島の変革に大きな影響を与えたのだろう。喜界島にはこのほかにも注目すべき遺跡がある。情報発信に努めたい」と話す。
喜界町教育委員会は今年3月、「城久遺跡群:総括報告書」を作成した。古代から中世にかけ南西諸島海域で特異で重要な役割を果たした城久遺跡群の国の史跡指定を目指している。
(本田寛成)
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