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軽井沢大賀ホール10周年記念「中村紘子トーク&コンサート」 あふれる感情と教養に裏打ちされた解釈

2015/8/29

 ソニー名誉会長だった故・大賀典雄氏が私財を投じて建設した軽井沢大賀ホール(長野県軽井沢町)。今年開館10周年を迎え、記念コンサートが続いている。8月15日には大賀氏と親交が深く、同ホールに開館当初から出演してきたピアニストの中村紘子が登場した。ユーモアあふれるトークを入れて得意のラフマニノフやムソルグスキーの作品を弾く「中村紘子トーク&コンサート」を聴いた。

マイクを握り、ユーモアあふれる演目解説をする中村紘子(8月15日、長野県軽井沢町の軽井沢大賀ホール)=撮影 上野 隆文、提供 東京フィルハーモニー交響楽団

 「大賀さんならここで美声を聴かせてくれたことでしょう」。避暑地の緑の中にたたずむ独特の五角形の大賀ホール。音響に定評のある同ホールのステージに中村が登場した。彼女はマイクを握り、バリトン歌手や指揮者でもあった異色の経営者、大賀氏の思い出を語り始めた。

 特に観客の関心と笑いを誘ったのは、ロシアの巨匠エフゲニ・スヴェトラーノフ指揮のソビエト国立交響楽団が1990年に来日した際に共演してCDを録音したエピソード。「録音したらどうかと大賀さんがおっしゃられて。その頃は随分とお暇だったのか、録音にずっと立ち会われて、口やかましいPTAみたいで。大賀さんには随分鍛えられました」

 そのCDに収めた2曲のうち、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」はサントリーホール(東京・港)、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」は大阪シンフォニーホールでの録音。いずれも中村の十八番だ。彼女がこれまでもよく話題にしてきたエピソードなのかもしれないが、軽妙でしゃれた話術が会場を沸かせる。「当時はソ連崩壊前夜。通貨ルーブルの価値が下落して、優秀な楽団員が外国に引き抜かれてしまったのか、なんとまあ……」。なんとまあ、どんな演奏だったのか、ロシアの名門オーケストラについての毒舌の演奏評なので引用を差し控える。さあこのトークのオチはどうなるのか。「CDを出す時には名前が『ロシア国立交響楽団』に変わっていました」。ちなみにスヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団と共演したこのCDは中村のディスコグラフィーの中でも屈指の名盤といわれている。

ラフマニノフやムソルグスキーなどのロシア音楽を豪快に鳴らす中村紘子のピアノ演奏(8月15日、軽井沢大賀ホール)=撮影 上野 隆文、提供 東京フィルハーモニー交響楽団

 トークがこの日の演目の楽曲解説に及んでも、ユーモアは絶えない。「トーク&コンサート」だからトークが盛りだくさんなのは当然かもしれないが、さすがに開演から30分を過ぎる頃には、そろそろ演奏を聴かせてくれとお願いしたくなる。そしていよいよコンサートが始まった。最初はチャイコフスキーのピアノ曲集「四季」から「10月《秋の歌》」と「11月《トロイカ》」。「トークから演奏へとすぐに頭を切り替えるのは難しい」と中村は言っていた。確かに、話し言葉の残響が音楽の周囲にまだ漂っている気がする。やや落ち着かない雰囲気のまま音楽が流れていく。演奏時間の短い曲ならなおさらだ。

 しかしラフマニノフの「サロン小品集作品10」の「第3番《バルカローレ》」に入る頃には、音楽の世界にどんどんのめり込んでいく中村の姿があった。明らかにピアノの響きが熱を帯びてくる。前半最後の演目、ラフマニノフの「幻想的小品集作品3」の「前奏曲《モスクワの鐘》」はこの日の圧巻といえよう。作曲家兼ピアニストだったラフマニノフの若い頃の作品で、彼がこれをアンコールで弾かないと客が帰らないほど人気のある曲だったという。

 中村の「モスクワの鐘」の演奏は、ロシアの大地に響き渡る壮大な鐘の音を思わせるダイナミックな表現だ。強烈な打鍵による速いストロークは爆演とも呼ぶべきものすごさ。だがその強烈さの中には非常にセンチメンタルな叙情と追憶の念が染み込んでいた。それが何なのかは分からない。遠い昔を懐かしみ、いとおしむ感情だ。大賀氏が健在だった頃、ソニーで録音を重ねていた時代への郷愁なのか。あるいはチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門の審査員を務めた思い出か。モスクワとラフマニノフを熟知した人の演奏だ。作品の中に完全に没入し、作品と自らの感情が相互に乗り移ったかような中村の演奏に胸が熱くなる。楽譜通りきれいに弾くだけでは良しとしない、怒とうの感情の表出に、彼女の演奏の醍醐味を感じる人は多いだろう。

感傷的でロマンチックな歌い回しもさえる中村紘子のロシア音楽のピアノ演奏(8月15日、軽井沢大賀ホール)=撮影 上野 隆文、提供 東京フィルハーモニー交響楽団

 後半はトークなしでムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」を全曲弾いた。ロシアの画家ヴィクトル・ハルトマンの遺作の展覧会に触発されてムソルグスキーが書いた有名すぎるピアノ組曲だ。中村によるこの作品の全曲解説は前半でたっぷり聞いた。ハルトマンやドストエフスキーなどロシアの芸術家のエピソードをふんだんに盛り込み、博識ぶりを改めて示したが、19世紀ロシアの農奴の苦しい生活など虐げられた人々についての話も印象深い。

 そのためか、「ブイドロ(牛車)」では非常に重々しい苦役の響きを醸し出し、「カタコンブ(ローマ時代の墓)」も沈鬱さを増して聞こえる。全体を通じて瑕疵(かし)がないわけでもない。しかし文学的な解釈が全体を貫く演奏は貴重だ。著書「チャイコフスキー・コンクール」で1989年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、作家でもある彼女の文学的センスが音楽に表れる。

 アンコールはショパンの「英雄ポロネーズ」。速めのテンポで豪快な流れを生み出す。「もうやけっぱち」と本人は終演後に言っていたが、数え切れないほど弾いてきたショパンの有名曲に改めて独自の緩急と強弱を施し、絶えず気品にあふれ、新鮮味を出して聴かせる。経済界の重鎮をはじめ、長年のファンも大勢集まったこの日、最も拍手が多かったのは「英雄ポロネーズ」だった。

アンコールのショパン「英雄ポロネーズ」でも本領発揮の中村紘子(8月15日、軽井沢大賀ホール)=撮影 上野 隆文、提供 東京フィルハーモニー交響楽団

 今年初め、大腸がん治療のため演奏活動を1カ月ほど休んだ。にもかかわらず闘病を全く感じさせない快演を中村は披露した。上手に弾くピアニストはいくらでもいる。しかし彼女のように、人文学的教養に裏付けられた独自の深い作品解釈があり、同時に花のあるステージをみせる本物のアーティストは、日本にどれだけいるだろうか。

 8月25日、中村の演奏活動を11月末まで休止すると所属事務所のジャパン・アーツが発表した。がんの治療と並行してコンサートを続けてきたが、治療方針について主治医と綿密に協議した結果、当面の集中的な療養が必要と判断されたという。大賀ホールでの公演は、日本のピアニストの代名詞として君臨してきた彼女の、プライドを懸けた渾身の演奏だったのだ。その気高いアーティスト魂に観客は惜しみない拍手を送った。彼女がステージに復帰する日を聴衆は心から待ち望んでいる。

(文化部 池上輝彦)

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