ライフコラム

ヒット総研の視点

お腹の脂肪 厄介者から再生医療の主役に変身 日経BPヒット総合研究所 西沢邦浩

2015/9/3

日経BPヒット総合研究所

エンターテインメント、トレンド、健康・美容、消費、女性と働き方をテーマに、ヒット案内人が世相を切るコラム「ヒットのひみつ」。今回のテーマは、体脂肪をはじめいろいろな器官の細胞に分化することができる「脂肪幹細胞」です。脂肪吸引などで採取できる脂肪組織にあるこの幹細胞は、美容や関節炎の緩和といった身近な医療に利用され始めています。今、ちょっと厄介者だった脂肪に熱い視線が注がれています。

体脂肪というと、増えすぎては困るものであり、努力して減らさなくてはならない“問題児扱い”されることが多いのではないだろうか。

しかし今、この脂肪と一緒にいて、新しい脂肪や血管のもとになる細胞を生み出す幹細胞、いわゆる「脂肪幹細胞」が再生医療の主役の一つに躍り出ようとしている。培養技術の確立や安全性検証などが進められているiPS細胞やES細胞に先んじて、医療現場で利用が進もうとしているのだ。

実際には、例えば乳がんにより切除した乳房に、患者の別の身体部位から取った脂肪を移植し、そこに存在する脂肪幹細胞の働きで乳房再建を図ったり、美容目的で腹部から吸引した脂肪の脂肪幹細胞を膝などの炎症部に注入して痛みを治めたりするといった利用法だ。

体の中にある幹細胞は「体性幹細胞」と言い、血液の細胞をつくる造血幹細胞、粘膜や皮膚をつくる上皮幹細胞をはじめいくつかの種類がある。話題の脂肪幹細胞は、中胚葉由来の間葉系幹細胞という種類で、脂肪組織の血管周囲に存在するものが脂肪幹細胞と呼ばれる。脂肪細胞になるのはもちろん、必要に応じて骨や軟骨、筋肉、血管、神経など特定の部位に分化することもできる。

脂肪幹細胞は採取しやすいだけでなく、脂肪細胞以外にも血管内皮や骨、軟骨、心筋の細胞などさまざまな組織の細胞に分化できるという。体内の幹細胞は、部位によって性質が異なり、脂肪幹細胞は比較的、皮膚や血管の再生に優れていると考えられている

■脂肪幹細胞が注目される3つの理由

間葉系幹細胞は骨髄や軟骨、筋肉などいろいろな場所に存在するが、なかでも脂肪幹細胞が注目されている第1の理由は、少ないダメージで量が確保できることだ。

「腹部などから大量に取ることができる。それに比べ、末梢血や骨髄から取れる幹細胞の量は少ない。脂肪幹細胞は付着性が高いため、傷などの部位に使いやすい点も有利」と、実際に脂肪幹細胞を用いた再生医療を進める東京大学医学部附属病院形成外科の吉村浩太郎講師は話す。

第2に、美容医療で行われる脂肪吸引などによって採取できるためコストが安い。一方、iPS細胞を使った再生医療はコストがひとつの壁になっている。患者の皮膚の細胞から作ったiPSで網膜色素上皮細胞シートを作成して目に移植を行った2014年の手術では、5000万円以上の費用がかかった。

もう一つの理由は安全性。「傷の修復を促進するために脂肪幹細胞を創傷箇所に注入しても、3日後には消滅しており、がん化する心配がない。しかも患部での短い滞在期間に炎症を抑える物質などを盛んに出して、治癒をサポートする」と、傷や腱断裂などの治療に脂肪幹細胞を生かす研究を進める産業技術総合研究所創薬基盤研究部門の木田泰之主任研究員は言う。

■乳房再建から傷の治癒などに広がる利用

脂肪幹細胞の利用方法も多様化している。

乳房のようにある程度大きな部位の再建には、血管も含めた患者自身の脂肪組織をそのまま移植する。「乳房に移植した脂肪細胞は死滅して、徐々に免疫細胞によって排除される。しかし、そこにいる幹細胞が目覚め、新たに脂肪細胞や血管を作っていく。つまり、脂肪幹細胞の家(脂肪組織)ごと移植して場所を確保しながら、同じ場所で新築作業を行わせるというわけです」(吉村講師)。

一方、脂肪吸引などで採取した脂肪から幹細胞を分離し、それを傷や炎症部の治癒のサポートに使用する注入移植も検討されている。

木田主任研究員は、マウスで、断裂したアキレス腱の縫合時に脂肪幹細胞を使う試験を実施した。「断裂したアキレス腱を縫合する際に、縫合部に脂肪幹細胞を入れると、治癒速度は単に縫合した場合の2倍程度に早まる。腱由来の幹細胞や骨髄幹細胞を使用する場合に比べても、脂肪幹細胞を使った場合のほうが早い。これは、脂肪幹細胞がほかの部位の間葉系幹細胞よりコラーゲン生成能が高いからだ」。

つまり、コラーゲンの束が構造体になっている腱や皮膚といった組織の修復に、よく働いてくれる可能性が高い細胞だといえる。

ヒト胎盤由来の幹細胞、骨髄幹細胞、脂肪幹細胞をマウスの傷部分に塗ったところ、脂肪幹細胞が最も傷を治す作用が強く、治りもきれいだったとする別の研究もある。脂肪幹細胞は皮膚組織をつくる線維芽細胞や血管内皮細胞の増殖因子を増やし、コラーゲンのもとになるたんぱく質も多く作っていた(下図)。

マウスの背中に傷を作り、胎盤由来の幹細胞、骨髄幹細胞、脂肪幹細胞を傷部分に移植し、その後の治癒状況を調べた。その結果、脂肪幹細胞を塗った場合が最も傷を治す作用が強く、傷の治りもきれいだった(データ:I n t J Mol Med.;31,2,407-415,2013)

さらに、「脂肪幹細胞は、ほかの幹細胞に対する司令塔の役割も担っている」と木田主任研究員。傷が生じた場所に集まった脂肪幹細胞は、血中を通じて骨髄幹細胞を呼び寄せたり、傷の場所近くにいる線維芽細胞にコラーゲンなどを作るよう指示を与えて、傷の修復作業に当たらせたりするというのだ。

■スキンケアも脂肪幹細胞に注目

このような医療領域だけでなく、化粧品のような美容領域でも脂肪幹細胞の活用が始まっている。

皮膚のハリを保つコラーゲンや潤いを保つヒアルロン酸を作るのは、表皮下の真皮層に存在する線維芽細胞。しかし、この細胞の働きは一般的に加齢とともに低下するとみられる。

18~29歳の若者8人の肌から採取した線維芽細胞と、80歳以上の高齢者8人の肌から採取した線維芽細胞を培養し、I型プロコラーゲン産生能を比較した。その結果、80 歳以上の線維芽細胞のコラーゲン産生量は、若者の線維芽細胞に比べ明らかに少なかった(データ:Am J Pathol.; 168,6,1861-1868,2006)

そこでロート製薬は、化粧品にある種の成分を加えることで、皮膚の下にある脂肪層中の脂肪幹細胞を刺激し、真皮に呼び寄せて皮膚の若々しさの維持に働かせることができないかという研究に着手。「様々な成分の組み合わせで検証したところ、ある3種類の成分を組み合わせたときに脂肪幹細胞を移動させる作用が最も高まった」と、同社細胞工学研究グループの湯本真代さんは話す。

同社が皮膚を模した二相培養モデルを用いて行った試験では、この複合成分による脂肪幹細胞の“呼び寄せ作用”は、配合しない場合と比較して60%増で、脂肪幹細胞自体の増殖も促進したという。また、この複合成分を配合した化粧品を使ったヒトの実験では、皮膚の表面を覆う角層の水分量が8週間で約2倍になった。

「実際に、ヒトの皮膚の中で脂肪幹細胞が移動していることの確認は現時点では困難」と湯本さん。しかし、産業技術総合研究所の木田主任研究員は「化粧品などに含まれる物質が、皮下組織から真皮層に脂肪幹細胞を呼び寄せることはありえる」という。

また「皮膚の上からの機械的刺激で幹細胞を動かすこともできる。例えば、皮膚にテープを張り付けてはがすと、角質がはがれることによって、幹細胞は“傷だ”という信号を受けて目覚めて働き始める」と東京大学医学部の吉村講師。

エピステーム ステムサイエンス。脂肪幹細胞の働きに注目した複合成分「ステムSコンプレックス」配合。右:ローション、左:エマルジョン(どちらも1万5000円、税別)(写真:中田裕史)

今後は、皮膚の上から塗る成分や刺激で、脂肪幹細胞の働きを高めようとする美容法が登場してくるかもしれない。このような試みに取り組んだ化粧品成分の第1号といえる、ロート製薬の複合成分は「ステムSコンプレックス」と名付けられ、2015年9月1日に化粧品ブランド「エピステーム」に加わった新商品に配合された。

脂肪幹細胞にはこの先、どのような用途の広がりが考えられるのだろうか。

「自己免疫疾患、関節炎、虚血性疾患、糖尿病による脚の壊疽(えそ)などの治療、そして肌の再生など美容分野のニーズが高いでしょう」と吉村講師。木田主任研究員も、「まず9割近くを占めるのは美容医療ではないか。例えば、顔面の神経再生やシワやたるみといった見た目の改善への利用が考えられる」とする。

医療への応用を進めるためには、この医療をサポートする技術や企業の役割も重要になる。「採取した脂肪幹細胞を培養すると、現状では多少の劣化が起こってしまう。従って、もとになる幹細胞の機能を維持したまま大量培養する技術が可能になれば今の医療を大きく変えることになるかもしれない」(吉村講師)。

■肥満を防げば幹細胞の働きが守れるかも

ここで基本的な点に立ち返って恐縮だが、そもそも脂肪は私たちの体の中で何をしているのかを考えてみたい。

肥満でない人の健康な脂肪からは、脳に「満腹だよ」という信号を伝えるレプチンというホルモンが分泌されて食べ過ぎを防いだり、炎症を抑え、代謝がいい状態を維持するアディポネクチンという善玉ホルモンが分泌されたりしている。実は、脂肪は健康維持のために重要な仕事をしているのだ。

「脂肪は体内で唯一、脳神経系の支配を受けないユニークな器官。一方、血液や体液の影響を受けやすいため、その中に含まれるホルモンなどの物質にはよく反応する」と木田主任研究員。

脂肪は、私たちの脳が気付かない異変を察知し、対応している可能性もありそうだ。しかし、肥満になって脂肪細胞が大きくなると、ジキルとハイドのようにその性質が変わり、今度はインスリンの働きを悪くするTNF-αや血圧を上げるアンジオテンシノーゲンなどの物質を出し、病気リスクを高める。

実際、脂肪幹細胞も、肥満した脂肪組織からとったものだと働きが落ちるようだ。

「健康な脂肪の脂肪幹細胞は機能性が高いが、肥満によって大きくなった脂肪の幹細胞は働きが落ちる。また、肥満だけでなく加齢でも性能が低下する傾向がある。それは、幹細胞が生活環境により変化を起こしているからだろう」(木田主任研究員)

加齢はいかんともしがたいが、定期的な運動など身体機能の老化を防ぐ方策はある。

そうした、ちょっとした体に対する配慮と努力で、これから再生医療の主役になりそうな脂肪幹細胞の生きの良さを保ち、自分の体の中で若さや健康の維持のために働いてもらえると考えると、なんとも愉快ではないか。

西沢邦浩(にしざわ・くにひろ)
日経BPヒット総合研究所 上席研究員・日経BP社ビズライフ局プロデューサー。小学館を経て、91年日経BP社入社。開発部次長として新媒体などの事業開発に携わった後、98年「日経ヘルス」創刊と同時に副編集長に着任。05年1月より同誌編集長。08年3月に「日経ヘルス プルミエ」を創刊し、10年まで同誌編集長を務める。早稲田大学非常勤講師。
[参考]日経BPヒット総合研究所(http://hitsouken.nikkeibp.co.jp)では、雑誌『日経トレンディ』『日経ウーマン』『日経ヘルス』、オンラインメディア『日経トレンディネット』『日経ウーマンオンライン』を持つ日経BP社が、生活情報関連分野の取材執筆活動から得た知見をもとに、企業や自治体の事業活動をサポート。コンサルティングや受託調査、セミナーの開催、ウェブや紙媒体の発行などを手掛けている。

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