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朝・夕刊の「W」

大田垣蓮月 失意の果てに見た境地 ヒロインは強し(木内昇)

2015/8/16

大田垣蓮月は四十代半ばまでを、失望のうちに過ごした。京都三本木の芸妓の娘として生を受け、すぐに知恩院の地侍・大田垣伴左衛門に引き取られる。十代で結婚して自らの家庭を得るも、授かった三人の子供たちは幼くして次々に亡くなった。さらには、夫まで病で失ってしまうのだ。

イラストレーション・山口はるみ ■蓮月焼が人気 1791~1875年。出家前の名は誠(のぶ)。母は京都三本木の芸妓。父は伊賀上野城主とも城代家老とも言われる。知恩院地侍・大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となり、7歳から丹波亀山城に御殿奉公にあがり、薙刀、和歌、書などの教養を身につける。出家し知恩院に住むが、養父の死後岡崎に移り、和歌と陶芸にいそしむ。歌を彫った陶器は「蓮月焼」と称され、人気を博した。晩年は慈善活動にも尽力した。

辛い二十代を経て、三十歳間近に彼女は再婚する。女の子を産み、ようやく人並みの暮らしが送れると安堵したのも束の間、またしても夫に先立たれてしまう。この機に蓮月は尼となり、知恩院の真葛庵に逼塞する。失意の中、せめて娘だけは立派に育てようと懸命に励むも、数年後、この娘も夭逝するという不幸に見舞われるのである。

目の覚めるような美貌の人であったという。剃髪しても面立ちの美しさは隠しようがなかったのだろう、多くの男性に言い寄られ、熱烈な文をもらうことも少なくなかった。彼女はそれを疎み、ついには歯を抜くという荒技で、自らの容貌を醜く変えていく。

結婚して子を産むのが女の幸せだと、若き日の蓮月は信じていたのだ。彼女が生きた江戸末期の女性のほとんどが、実際そうしてつつがなく暮らしている。彼女もまたそれで十分だった。けっして欲をかいたわけでも、贅沢を望んだわけでもない。それなのに、普通の暮らしさえ許されない。なぜ自分ばかりがこんな目に遭わねばならないのか、という理不尽が、胸裏に渦巻いていたのではないか。

四十二歳のとき養父・伴左衛門を亡くし、天涯孤独の身になった。失意が底を打ったのかもしれない。あたかも水底を蹴って浮かび上がるように、彼女の人生はここから反転し、輝き出すのである。

娘時代に一通りの教養を身につけていた蓮月は、生計のために和歌と陶芸を学び直し、黙々と研鑽した。当初は誰にも見向きされなかったその作品は徐々に注目を集め、高い評価を得るようになる。

ことに、自作の歌を陶器に刻むという、和歌と陶芸を融合した作品は、斬新かつ風流だと評され、蓮月は一躍時の人となる。だが周囲からもてはやされることを彼女は好まず、いわゆる「ファン」を名乗る人々とも一切交流を持たなかった。そうして淡々と「自分の作品」を作り続けた。生計のためにとはじめた仕事が、いつしか自らの生きる支えとなっていったのだ。

彼女の晩年、浦賀に異国船が来たことに端を発した騒擾が起こる。攘夷か開国か、勤王か佐幕か。諸藩の思惑の絡んだ争いへと発展していったのだ。そんな世相を憂えて、蓮月は歌を詠んでいる。

「あだみかた(仇味方)勝つも負くるも哀なり おなじ御国の人とおもへば」

辛い現実を経て、苦悩の果てに自らの生き方を得た彼女には、多くを巻き込み戦をする者たちが愚かに見えたに違いない。人生はただでさえしんどい。だからこそ個々人が自由に挑戦する価値がある。世が平穏だからこそ可能なそれら挑戦を、政治を担う者がなぜ阻むのか、と蓮月は歯がゆかったのではなかろうか。

[日本経済新聞朝刊女性面2015年8月15日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

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