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ベルリン・フィルが選んだ「無名」の指揮者、キリル・ペトレンコ

2015/8/2

 世界最高峰のオーケストラの1つ、ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は今年6月下旬、2018年に退任するサイモン・ラトルの後任の首席指揮者・芸術監督を全楽員の合議により、キリル・ペトレンコと決めた。

■10代からオーストリアで育つ

 ロシア生まれのオーストリア育ち。ドイツ語圏のオペラ界でキャリアを積み、傑出した力量を評価されているが、CDやDVDだけでなくメディアへの登場機会は限られ、英語圏や日本では「無名の指揮者を選んだ」と、驚きの声が上がった。

ベルリン・フィルの次期首席指揮者・芸術監督に内定したキリル・ペトレンコ(撮影・Wilfried Hoesl)

 最初にペトレンコの経歴に触れておこう。ユダヤ系ロシア人。1972年2月11日、シベリア第2の都市オムスクでヴァイオリニストの父、音楽学者の母の間に生まれた。まずはピアノの才能を伸ばし、11歳で地元のオーケストラと共演してデビュー。東西冷戦の終結を受けて父親がオーストリア連邦最西端のフォアアールベルク州の交響楽団へ転職、一家で旧ソ連を出た時は18歳。最初は同州立音楽院でピアノの勉強を続け、後にウィーン国立音楽大学でウロス・ラヨヴィッチに師事し、指揮法を本格的に学んだ。

 プロとしてのデビューは95年。第2の故郷フォアアールベルクの歌劇場で、ブリテンの「オペラをつくろう」を指揮した。97~99年にはウィーン・フォルクスオーパーでカペルマイスター(常任指揮者)を務め、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」原典版に挑むなどの成果を上げた。99~2002年はドイツ最年少の音楽総監督(GMD)としてマイニンゲン宮廷劇場を率いた。ここで01年、クリスティーネ・ミーリッツ演出によるワーグナーの「ニーベルングの指輪」4部作で2組のオーケストラを振り分け、4日連続の上演を実現した時点で、ドイツ語圏の音楽メディアがこぞってペトレンコの存在をマークした。

■オペラ指揮者として高い評価

 「同世代で最も優れたオペラ指揮者」の評価は02~07年、ベルリン・コーミッシェオーパ―のGMDだった時期に固まった。どの国のオペラも原則ドイツ語で上演するコーミッシェオーパーはペーター・コンヴィチュニー、カリスト・ビエイトら一筋縄ではいかない演出家たちが原作の「読み替え」も辞さず、挑発的な舞台をつくるムジークテアーター(音楽劇場)の最先端。ペトレンコは海千山千の演出家と実りある音楽の共同作業をなし遂げ、「オペルンヴェルト」誌の「今年のベスト指揮者」に07、09年の2度選ばれた。初めてランク入りした05年もいきなりの2位で、巨匠ピエール・ブーレーズの次につけた。

 ベルリンで完全燃焼したのか、GMD辞任後しばらくはフリーだったが、客演先はウィーン国立歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など一流ぞろい。10年5月には病を得た音楽監督、小澤征爾の代役でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をウィーンで指揮している。ベルリン・フィルとは06年に初共演し、09年と12年にも客演したが、ドイツ・オーストリアの古典の交響曲は慎重に避けてきた。昨年末にもマーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を指揮する予定だったが、リハーサル途中で降板し「自発的に後継者レースから降りたのではないか」と、うわさされた。

 13年9月にはケント・ナガノの後任としてバイエルン州立歌劇場のGMDを引き受け、現在もその職責にある。13~15年は作曲家自身が創設したワーグナー上演の聖地、バイロイト音楽祭に招かれ、フランク・カストロフ演出の「指輪」全曲の指揮を委ねられた。演出の評判は芳しくないが、ペトレンコの指揮は「明晰(めいせき)かつ均質に練り上げられニュアンス豊かな響きが16時間にわたり、緑の丘(バイロイト)に鳴り続けることは近来まれだった。多くのワーグナー・ファンは、心からの大歓声を送った」(「シュピーゲル」誌)、「早くから『天才ではないか』と臆測を呼んでいたが、バイロイトの『リング(指輪)』で輝く星となった。後期ロマン派音楽においては向かうところ敵なしの優れた指揮者である」(「ツァイト」紙)などなど、ドイツ・メディアの絶賛に包まれている。

どこまでも楽譜を深く読み、「作曲家のしもべ」に徹する誠実な音楽づくりはドイツ語圏で高い評価を得ている(撮影・Wilfried Hoesl)

 もう一つ、全メディアの意見が異論なく一致するのはペトレンコの「アンチ・マエストロ(非巨匠)」ぶりだ。「ターゲスシュピーゲル」紙は「世界のクラシック音楽界きっての無口な指揮者」とし、ペトレンコが「もう何年も単独インタビューに応じない」うえ、バイエルン州立歌劇場の年次記者会見にGMDとして出席しなければならない場面でも「ほとんどシャイともいえる態度で作品への畏怖の念をこめ、誠実に、言葉すくなに答える」との姿を詳しく伝えている。ベルリン・フィルからの第一報がバイロイトでリハーサル中のペトレンコに届いた瞬間も、ただ一言、「私はあなたたちのオーケストラを抱きしめる」と短いながら、心のこもったコメントを発しただけだった。

 クリスティアン・ティーレマン(ドレスデン州立歌劇場GMD)、アンドリス・ネルソンズ(ボストン交響楽団音楽監督)、グスターヴォ・ドゥダメル(ロサンゼルス・フィルハーモニック音楽監督)、ヤニック・ネゼ=セガン(フィラデルフィア管弦楽団音楽監督)ら、ラトルの後任人事で有力候補とされた指揮者の多くはベルリン・フィルとも関係が深い名門レーベル、ドイツ・グラモフォン(DG)とすでに契約し、世界各地で演奏活動を展開している。ペトレンコはほぼ唯一の、DGと関係ない指揮者だった。クラシック音楽の有力市場とされる日本にもまだ、姿を現していない。オスロ・フィルやロイヤル・リヴァプール・フィルとのツアー、あるいはNHK交響楽団の演奏会などを日本で頻繁に指揮してきたのは1976年サンクトペテルブルク生まれのロシア人、ワシリー・ペトレンコである。キリルとは親戚でも何でもない、という。

■ベルリン・フィルの精神風土とベルリンの街の力学

 ベルリン・フィルはなぜ、「後継者を一人に絞れなかった」と発表した後、わずか1カ月あまりで国際サーキットに背を向けたアンチ・マエストロ、しかも、交響楽演奏会よりオペラで実績を積んできたロシア人に未来を託したのか?

 キーワードは2つ。第一はもちろん、名声に甘んじることなく人材発掘と演奏能力、メディア戦略のあらゆる部分で「世界最先端のオーケストラであろう」と努めるベルリン・フィル自体に備わった精神風土。第二は、19世紀末から20世紀半ばにかけて何度も栄光と挫折を繰り返した都市ベルリンの「創造と破壊」の摩訶(まか)不思議な力学だろう。

 ベルリン・フィルと並び称される名門、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は基本的にウィーン国立音楽大学の師弟関係に基づいて楽員を補充し、同質の響きを保ってきた。これに対しベルリンは第2次世界大戦中、ナチス政権の干渉でユダヤ系楽員を失う一方、ドイツ人楽員にも多くの戦死者を出し、伝統が分断された。「帝王」として君臨した指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンは世界最高のアンサンブルを目指してドイツ語圏外からの採用にも力を入れ、日本人や女性に門戸を開いた。

 続くクラウディオ・アバドの時代は終戦直後の大量採用世代の引退期と重なった。アバドはヨーロッパ室内管弦楽団、グスタフ・マーラー・チェンバー・オーケストラなど自身が育成に携わった若手集団からの入団を積極的に促す一方、最新の音楽学の成果を採り入れ、演奏様式のリフレッシュに成功した。ヨーロッパ大陸の外から招いた初めてのシェフ、英国人サイモン・ラトルの下には20以上の国籍を異にする楽員が集まり、世界最高のヴィルトゥオーゾ(名人)集団の様相を呈している。

 2003年にはベルリン特別市の管理下を離れ、完全民営の独立法人に移行した。楽員の合議制による運営が一段と進み、インターネットで世界に最高音質・画質のライヴ映像を配信する「デジタルコンサートホール」などのメディア戦略を担う子会社でも、楽員代表が代表取締役を兼ねる。DGなど外部のレコード会社の思惑に左右されず、独自の音楽ソフトを販売するためにも、ペトレンコの「無色」には魅力があった。若い時期からGMDとして劇場の運営に携わり、大勢の音楽家やスタッフと根気よく心を通わせ、入念かつ情熱的なリハーサルで音楽の質を高めてきた実績は、合議制チームにもフィットするはずだ。

 ベルリンの近代史を振り返ってみよう。「鉄の宰相」のオットー・フォン・ビスマルクが推進したドイツ統一を受けて生まれたプロイセン王国~ドイツ帝国の流れは第1次世界大戦で挫折、欧州の文化的な首都として栄えた黄金の1920年代(ローリング・トゥエンティーズ)はアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権の台頭で消え去り、ヒトラーが夢見た第三帝国の栄光も第2次大戦の敗戦で無に帰した。

 ある時期、ある分野で世界を制覇しかけては崩れ去る……。滅びの構図を何度も体験しても、あるいは体験したからこそ、ベルリナー(ベルリン市民)の不屈の精神は時として、すさまじく激しい創造のエネルギーへと昇華する。

 西のドイツと日本が同時に享受した戦後の高度成長期、音楽の世界でもテレビ放送や長時間収録(LP)レコード、ステレオ録音、ビデオソフトといった新しいテクノロジーが大量に投入された。技術マニアだったカラヤンはクラシック音楽のメディア戦略を徹底して主導したし、後任のアバドもラトルもカラヤンほど強烈なカリスマ性、商業主義の匂いはなかったにせよ、ベルリン・フィルのシェフに選ばれた時点で大量のディスコグラフィー(盤歴)を蓄えていた。カラヤンからラトル(退任時点)までの63年間はある意味、同質の指揮者との共同作業が続いたわけで、ベルリンの一角にそろそろ「破壊」への危険な誘惑が充満していたとしても何ら不思議はない。ゼロからの創造にはゼロから勝負できる指揮者……。2度目の投票で、そんな機運が一気に盛り上がってしまったのではないか?

 ペトレンコも含め、ベルリン・フィルの歴代指揮者10人が常任指揮者、首席指揮者、芸術監督に就いた時点の年齢を点検すると30代が2人、40代が6人、50代が2人。就任時点で46歳のペトレンコは意外にも「多数派」に入る。カラヤンだけは終身指揮者の称号を与えられたが、晩年に悪化した健康状態とスキャンダルの表面化で急死の直前に退任。亡くなるまでベルリン・フィルの指揮者を務めた、つまり「在職死亡」扱いのシェフはアルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、レオ・ボルヒャルトの3人にとどまる。ボルヒャルトはペトレンコに先立つロシア人で戦後の混乱期、ベルリンに駐留した旧ソ連軍の意向で君臨したのもつかの間、米国兵の誤射によって3カ月後に落命した。ボルヒャルトを除く9人の平均在任期間は15年あまり。ラトルの16年間が極端に短いわけでもない。ベルリン・フィル人事の実態は、マエストロ神話と無縁のところに位置する。

 興味深いのは本国ドイツを上回る勢いでベルリン・フィルを神格化し、豪華なキャストや舞台演出を伴う海外オペラ団体の引っ越し公演にも匹敵する高額入場料(2013年日本公演のS席は4万円)もいとわなかった日本市場の反応だろう。高額が暴利というわけではない。一人一人の楽員が独奏家(ソリスト)の力量を備え、オーケストラ全体のツアーがない年にも単独や室内楽チームでの演奏会、音楽祭や音楽大学でのマスタークラスの指導などで頻繁に日本を訪れるうちに相場が上がり、指揮者以前に、ベルリン・フィル自体のコストが驚くほど高いのである。あるテレビ局のニュースはペトレンコをあっさり「無名の指揮者」と報じたが、ラトルからペトレンコにシェフが替わったとしても、入場料金の値下がりは期待できない。興行の主催者にとっても、ベルリン・フィルのファンにとっても、かなり悩ましい決定が下されたものだ。

(電子編集部 池田卓夫)

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