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南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃 歴史新発見 鹿児島県喜界島

2015/7/30

鹿児島県本土から南へ約380キロ。周囲50キロ足らずの喜界島で、多数の遺跡から貴重な発見が相次いでいる。中でも12世紀ごろ、砂鉄から鉄を作る製鉄炉跡が沖縄など南西諸島で初めて見つかったのは歴史的な発見で、大きな衝撃が広がった。琉球弧と呼ばれる九州から台湾まで約1200キロの弧状に連なる島嶼(しょ)群で古代から中世にかけ極めて重要な役割を果たしたと見られ、喜界島に注目が集まっている。

喜界島には古くから本土との交流を示す遺跡が残っている。縄文遺跡の数は多く、約3500~3000年前の縄文後期から末期とみられる黒曜石製のやじりが見つかっている。黒曜石は佐賀県腰岳産とみられる。

昨年には約2000年前、弥生時代後期の青銅製鋤先(すきさき)が出土。南西諸島では初めてで、これまで九州の北部まででしか見つかっておらず、九州南部を飛び越えて大幅に南下、北部九州で作られたものが持ち込まれたという。13~15世紀ごろとみられる中世の遺跡では琥珀(こはく)の原石も見つかっている。交易によって入手したとみられ、これも南西諸島では初めてだ。

■本土、南西諸島、中国大陸、韓半島と交易

喜界島は奄美大島の東約25キロ。島内は奄美大島がごく間近に見える至近距離にある。南西諸島で初めてとなる遺物が次々に見つかる中、とりわけ注目を集めているのが製鉄炉跡だ。

最初に確認されたのは島南西部の緩やかな傾斜を持つ台地上にある崩リ(くずり)遺跡だ。3年前に鉄滓(さい)と呼ばれる鉄の生産や加工をする時に出る鉄くずが大量に出土。砂鉄を炉で溶かして鉄を取り出す際に流れ出る流動滓と、炉内で出来る残留滓があることが判明した。

全長13メートル幅2メートルの溝の延長線上には鉄滓を排出させる円形土溝2基(直径1.5メートルと直径2メートル)を確認。さらに、粘土を固めた炉壁の破片から判断して高さ約90センチの製鉄炉があったと推測されている。出土した土器から12世紀の遺構という。

この間の事情について鹿児島県喜界町教育委員会の澄田直敏埋蔵文化財係長は「愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長、村上恭通教授の指導を受けながら時間をかけ、慎重に調査を進めた。崩リで見つける以前に、鉄材や古鉄などを新たな鉄器に加工する鍛冶のための炉と思い込んでいた大ウフ遺跡でも再検討を行ったところ、より大がかりな製鉄関連の遺物や遺構であることが分かった」と説明する。

島中央部の高台に位置する城久(ぐすく)遺跡群は9世紀から15世紀にかけて本土や南西諸島、中国大陸、韓半島との交流を示す土器や陶器、磁器などの遺物が大量に発見されている。その中の大ウフ遺跡では、15平方メートルの範囲で製鉄や鍛冶関連の遺構が20基集中して見つかった。

高温で熱せられた焼土跡には独特の厚みと被熱度が現れており、炉壁を立てた製鉄炉があったと推測されている。精錬から鍛造、鉄器製作までの一連の作業が集中して行われていたようだ。炭素年代測定などから10~12世紀前半頃の遺構とみられる。

調査した村上教授は「崩リの炉の外径は約15~16センチとごく小さいものの、鉄滓を分析すると製鉄がなされたことは間違いない。城久では不純物を精製するする際に出る精錬鍛冶滓や鍛錬鍛冶滓などが出ている」と指摘。「中世の西日本の製鉄の主流は四角い炉。箱形ではない円筒形に近い炉は現在の熊本県付近の有明海沿岸の製鉄炉の特徴で、技術的な影響を受けている。喜界島の在地の人々が何らかの方法で模倣したようだ」と解説する。

城久では原料の砂鉄も見つかっている。喜界島は平たんな隆起サンゴ礁の島で砂鉄は産出しない。種子島などが候補としてあげられているが、どこから調達したかは今後の調査を待たなければならない。

村上教授は沖縄県北谷町の後兼久原(くしかねくばる)遺跡での発掘で、掘立柱建物跡や12世紀ごろの土器などとともに鉄滓や砂鉄が出土した状況を確認。「城久遺跡群を縮小したかのようによく似た遺跡だった。どちらが影響を与えたかを考えると、規模の大きさから考えても喜界島が沖縄に影響を与えたとみるのが自然」と話す。

特異な歴史的な位置

歴史をひもとくと喜界島が古来より特異な位置を占めていたことがよくわかる。

古代から中世の南九州史に詳しいラ・サール学園、永山修一教諭の研究によると、『日本紀略』長徳4年(998年)9月14日の記事に「大宰府言上す、貴駕島に南蛮を捕え進むるの由を下知す」とあり、翌年の長保元年(999年)8月19日の記事では大宰府が南蛮追討に成功した旨の記載がある。

貴駕島はキカイガシマで喜界島のことを示すと考えられており、史料上に初めて表れた例という。この記事で南蛮の実態は奄美島人で、貴駕島には大宰府の命令を受け、実行に移す出先機関あるいは関係者が住んでいたと考えられる。

10世紀末には日本の「内側」だったが、12世紀には「外側」の異国としてとらえられていた。『吾妻鏡』によると、天皇から譴責(けんせき)を受けた平忠景がキカイガシマに逐電したほか、源義経一味が隠れているとの疑念などから源頼朝はキカイガシマを征討、地頭職を設定した。だが、『漂到流球国記』の記述などから13世紀も異国との認識は続く。なお、俊寛らが流された「鬼界ヶ島」は鹿児島県三島村の硫黄島というのが永山教諭の見解だ。

崩リ遺跡では11月に開かれる国民文化祭の一環として中世の製鉄炉を復元し、鉄を作る計画だ。

14世紀には沖縄に琉球国が形成され、15世紀には薩摩と琉球の間で奄美大島や喜界島を巡り争いが起こる。奄美大島は1441~1446年ごろ琉球に降伏。喜界島は戦い続け1466年に琉球の支配下に入る。薩摩ほか南九州の諸勢力の支援を受けることで持ちこたえることができた可能性が高い。

琉球王国の形成に影響か

こうした歴史的文脈を踏まえると、喜界島で12世紀に製鉄が行われたことの意味合いをどうとらえればいいのだろうか。

永山教諭は11世紀後半から12世紀にかけて島外から得た大量の貴重な遺物が出土していることなどから「喜界島で生産した鉄を、奄美諸島や沖縄諸島に流通させることで、対価としての南島産品を獲得し、それを九州以北へ売ることで利益を得ていた勢力があった」ことに着目。「その影響は琉球王国形成の問題にかかわってくるのだろう」と話す。

本土では稲作と鉄器の流入によって縄文から弥生に時代が大きく転換したように、鉄器は人々の暮らしを一変させる。村上教授は「王国が成立する以前の沖縄でも鉄と米は重要な必要物資だったろう」と指摘。「本土では考えられないほど鍛冶炉が多く、製鉄まで行う集中生産をしており、喜界島にとって鉄は沖縄に対する重要な戦略物資になっていたのではないか」と推測する。鉄器を安定的に手に入れる手段を確保した勢力が琉球王国の成立に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

国学院大学の鈴木靖民名誉教授(古代史)は「喜界島は人の移動を含め交易など物流の拠点となっていたと推測される。南西諸島をめぐる古代から中世の歴史的展開の中で重要な役割を果たしていたことは間違いないだろう」と見ている。

今秋、鹿児島県で国民文化祭が開かれ県内各地で様々な行事やイベントが開催される。喜界島の喜界町では村上教授が崩リ遺跡で当時の製鉄炉を復元。実際に鉄を作るデモンストレーションを行う予定だ。

(本田寛成)

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