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ライフコラム
法廷ものがたり

1951年中国生まれ、女性が背負った「戦争」

2015/8/5

法廷ものがたり

裁判記録をとじた厚いファイルを開き、埋もれた事案に目を向けてみれば、当事者たちの人生や複雑な現代社会の断片が浮かび上がってくる。裁判担当記者の心のアンテナに触れた無名の物語を伝える。

70年前、1945年8月に戦争が終わった後も中国から引き揚げられなかった日本人は数多くいた。ある鉱山技師の男性は戦後も中国政府に任用され、祖国を夢見ながら苦難の末に亡くなった。戦後生まれの娘は35歳にしてようやく「帰国」を果たしたが、待っていたのは不安定な暮らしと国のしゃくし定規な対応だった。

現在は東京都内に暮らす64歳の女性が、中国の東北部で生まれたのは終戦の6年後、1951年のことだった。幼いころ、元旦に家族を集めて「帰国して日本の家族と元気に会えますように」と祈る父の背中が記憶に残っている。

愛知県に生まれた父は、高等専門学校を卒業した1914年に18歳で大陸に渡り、鉱山で採鉱や調査に当たる技師として戦中も各地を転々としながら働いた。ようやく戦争が終わった後もソビエト連邦(当時)軍の進出による混乱の中で帰国できず、朝鮮人の母らと共に吉林省の鉱山から田舎に逃れた。

鉱山技師の父、終戦後も日本へ帰れず

46年のある日、中国政府の役人が家に現れ、父はそのまま鉱山復興のため中国政府に任用されることになった。断れる状況ではなく、家族共々、日本への帰国は許されなかった。

女性は小学校で「小日本鬼子」といじめられ、毎日のように泣きながら家に帰った。父は「私たちはいずれ日本に帰るけど、今はしばらく帰れないから我慢してよく勉強しなさい」と慰めた。

しかし、時代は家族から日本をさらに遠ざける。66年に文化大革命が起こり、鉱山の副技師長だった父は収容所に送られた。「日本軍国主義分子」と書かれた看板を首から提げ、街中を引き回される父の姿を、女性や母は物陰から見守るしかなかった。

72年の日中国交正常化が転機となり、「これでようやく日本人も呼吸ができる」と女性は安心したが、釈放された父は強制労働のせいで身体が弱り、日本への長旅に耐えられそうになかった。「回復したら今度こそ日本に帰ろう」と父は呼びかけたが、胃潰瘍が悪化し、入院を余儀なくされた。

症状はさらに悪化し、長くないと悟った父は病院の枕元に家族を集めた。「みんなを連れて帰国できない。私の遺骨は日本の故郷の先祖の墓に持っていってほしい」。そのまま退院することなく、76年に父は亡くなった。戦争が終わって30年以上、一度も祖国の土を踏むことはなく、「おにぎりと味噌汁を食べたい」が口癖だった。

女性はその後、中国人男性と結婚。引っ越した先の都会で「残留邦人の交流会」の存在を知り、初めて帰国のために必要な手続きを教わった。四国に住む会ったこともないいとこの助けを借り、86年、夫と2人の娘を連れてついに帰国を果たした。35歳になっていた。

しかし、夢見ていた祖国の生活は決して安心できるものではなかった。中国で資格を持っていた医師の仕事は続けられず、何とか仕事は見つけたものの収入は激減。日本語はわからず、友人もいないなか、孤独感を抱えながら歳月を重ねた。老後への不安も尽きなかった。

年金申請却下され、「祖国」を提訴

こうした中国残留邦人の帰国者のため、国は国民年金の特例制度を設けている。帰国前を含めて最大40年間分の保険料相当額を「一時金」として支給し、そのまま追納させることで、老齢基礎年金を満額受け取れるようにする仕組みだ。女性も2011年に、この制度に基づいて一時金を申請した。

同制度には「46年以前の出生」という条件があり、51年に生まれた女性は「同様に扱える事情がある」と認められない限り、対象外とされる。「私が生まれた当時は政局が安定せず、生活も極貧でした。同じく戦争の被害者なのです。自分の祖国にいるがために冷遇されることは望んでおりません」。女性は申請書の欄外に中国語でそう書いて事情を訴えたが、国は「生まれた年には戦争による混乱は収束していた」として、女性の申請を却下した。

却下の取り消しを求めて女性は国を提訴した。裁判で国側は、あくまでも基準を重視し「生まれたのはすでに多くの日本人が引き揚げた後で、戦争による混乱の影響で引き揚げられなかったとは言えない」と主張した。

地裁は判決文で、当時の引き揚げ状況や中国の国内事情を検討し、「47年以降も中国に居住せざるをえなかった場合もあった」とした。そのうえで女性と父の人生を細かく振り返り、「女性が中国にとどまったのは引き揚げが困難だったからで、父の身に起きたことも女性の事情として考慮される」と判断。「46年以前に生まれた場合と同様に扱える」と認めて国の却下決定を取り消した。判決はそのまま確定した。

女性は法廷でこう述べている。「父は敗戦国の国民として日本の戦争の責任を負わされ、働かされてきました」。戦争の辛苦は国民一人ひとりに行き着く。戦後生まれの女性もまた、あの戦争を背負って生きてきたのだ。

(社会部 山田薫)

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