重厚感ある備前焼 人間国宝が作った手りゅう弾

2015/7/20

撮っておきphoto

窯で焼いた重厚感のある紫蘇(しそ)色、胡麻(ごま)と呼ばれる表面の独特の模様--。繊細な手つきで仕上げられた備前焼。人間国宝の故・山本陶秀(1906-1994)の約70年前の「作品」で、一見茶道具の茶入のようでもある。
備前焼の人間国宝の故・山本陶秀さんが作った陶器製手りゅう弾

「焼き物までも戦争に利用しようと考えたんでしょう」。現在、息子の雄一さん(79)が岡山県備前市の自宅で保管している、陶器製の手りゅう弾だ。太平洋戦争末期、旧日本軍の要請で日本各地の焼き物産地が陶器製の手りゅう弾を製造していた。「形が穏やかで作品のようにも見える。当時、関わった多くの窯元は型を取ってつなぎ合わせていましたが、父はろくろを回して一つ一つ作っていました」。「ろくろの名手」と呼ばれた陶秀さんのこだわりが感じられるという。高さは7~8センチ、幅は5~6センチで手に持つとズシリと重い。

備前焼は粘土を約1200度の高温で焼き上げる。非常に硬いのが特徴だ。「父は鉄に代わるものを必死に作ろうとしたのでは。実際、火薬を入れて破裂させると破壊力は高かったはず」。当時、小学生だった雄一さんは、爆破実験現場を目撃したこともある。自宅の裏山でのことだった。どの窯元が作ったものかは分からないが、板の囲いの中に投げ入れられると、激しい爆発音とともに立ち上った煙。飛び散った破片が厚さ2センチほどの板を突き破っていた。だが陶秀さんの手りゅう弾は戦地で使われることなく終戦を迎えた。

底には製造した窯元が分かるように番号が刻まれている

間もなく備前にも拳銃を持ったアメリカ兵がジープに乗ってやってきた。発見されるのを恐れ陶工たちは慌てて手りゅう弾を砕いて捨てた。陶秀さんもガラガラと深さ2メートルほどの穴の中に放り込み、やり過ごしたという。

月日は流れて1987年。陶秀さんは人間国宝に認定される。その翌年に自宅を改築する際、埋めた手りゅう弾を掘り返す作業が行われた。終戦から40年以上がたっていたが、年老いた陶秀さんはうわ言のように「進駐軍が来る、やめろ」と作業を止めようとしたという。「戦争に加担してしまったことへの罪の意識が心の奥底にあったのでは」と雄一さんは当時を振り返る。このとき掘り出された手りゅう弾は約500個。陶芸家も戦争に巻き込まれていった事実を後世に残そうと考え、一部を備前市歴史民俗資料館や東京の靖国神社に寄贈した。

約10年前から研究を続けている立命館大学の木立雅朗教授によると、陶器製の手りゅう弾は金属資源が不足した終戦前の1年間に有田や信楽など全国の焼き物産地で作られた。大規模な地上戦が繰り広げられた沖縄では実際に使用された形跡があるという。「火薬が詰まった状態で出土した際は不発弾と同じように処理を行っている」(陸上自衛隊那覇駐屯地)。木立教授は「伝統産業までもが戦争に関わっていた。そうした負の歴史もしっかりと見つめていかなければ」と訴える。

今年、戦後70年を迎える。「きっと父にとっては思い出したくないことだったはず。それでも誰かが伝えないといけない」と雄一さんは話す。父と同じ陶芸家となり、きょうも受け継いだろくろを回し続ける。

(写真部 山本博文)

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