「まだ弾いているのよ、私」。久しぶりのインタビューに現れたヴァイオリニスト、前橋汀子(1943年生まれ)は開口一番、「デビュー50周年」から3年を経た現在の心境を控えめに語りだした。
だが6月21日の日曜午後に東京・赤坂のサントリーホールで行った「前橋汀子アフタヌーン・コンサートvol.11」の圧倒的な成果に接した後は、「まだ」が謙遜ではなく、今なお前へ前へと進み、美しく輝く芸術家の強い自負なのだと思い知った。
皇后陛下も感激された小品演奏の至芸
アフタヌーン・コンサートは「一人でも多くの人に門戸を開き、音楽の魅力を率直に伝えたい」と願い、10年前に始めた。3千円均一の低廉な料金で前半に構えの大きいソナタ、後半に有名小品の数々を並べる。今年も前半にベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第5番『春』」、フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」を続けて弾き、華やかに歌いつつ、楽曲の核心に迫る気迫の激しさで客席を圧倒した。後半の「モスクワの思い出」(ヴィエニャフスキ)や「ウィーン奇想曲」(クライスラー)、「詩曲」(ショーソン)など長年弾き込んだ小品では演奏者、客席のテンションが高まり、アンコール4曲をサービスする盛り上がり。以前は激しいパッションの裏に隠れがちだった、楽曲の小宇宙を慈しむ優しさも前面に出る。後半を鑑賞された美智子皇后も、大変にお楽しみのご様子だった。
客層の中心は中高年の女性だが、面白いことに、昔からのひいき筋ではなく「ここ3~4年、気になって追いかけている」(大分県からの来場者)といった新しいファンが目立つ。若いころは前橋の美貌を目がけ、伊丹十三や深田祐介、蜷川幸雄、萩原健一ら男性著名人が殺到したが、この何年かで同世代前後の女性へ完全にとって代わった感じである。
「人間の性格はそのままだし、演奏だけを切り離すこともできないけど、年代を重ねて弾き続けているうちにはぐくまれた生き方、考え方は確かに音楽と結びついている」。前橋は11回の蓄積をこう語るが、「ただ1つ残念なのは初回から共演してきたロシア人ピアニスト、イーゴリ・ウリッシュさんが10回目を目前に急死されたこと」だという。「ソナタで渡り合う力量を備えながら、細かな名曲の伴奏まで引き受けて下さるピアニストがなかなかいない」中、昨年からは日本の中堅、松本和将(1979年生まれ)が共演している。
生まれて初めて、プロデュースに手を染める
休日昼下がりの肩ひじ張らない雰囲気は、演奏に一層の闊達さを与える以上の変化を前橋にもたらした。弾くことに集中するあまり、デビュー当時から一貫して他人任せにしてきた演奏会の「お膳立て」に、初めて目を向けたのである。
アフタヌーンを大阪、名古屋、札幌へも展開したのに続き、13年からは秋シーズンの平日の真昼に東京・池袋の東京芸術劇場コンサートホールで休憩なし60分で2千円均一、一段とポピュラーな曲目による「デイライト・コンサート」を企画する。今年は10月28日。おなじみの小品に加え、「テネシー・ワルツ」「黒い瞳」「マイ・ウェイ」など「懐かしの青春メドレー」に挑む。「池袋のデパートへ買い物に来たついで、お気軽に聴いていただければ」と、前橋は意図を説明する。サントリーホールでは、前橋の所属する音楽事務所が池袋のデイライトの前売りにとどまらず、来年7月3日の次回アフタヌーンの特別先行予約まで受け付け、常連客の熱い期待に応えていた。
そして14年、初めて「前橋汀子プロデュース」と銘打った5年連続のシリーズがついに誕生した。会場は横浜市の戸塚区民文化センター「さくらプラザ・ホール」。毎年4月と11月の2回、計10公演の壮大な自主企画である。戸塚区内にもまだ大勢いるはずの「生の弦楽器の音を一度も聴いたことのない人々」に狙いを定め、わずか451席の音響の良いホールに一般3千500円、戸塚区民3千円と、2段階の料金を設定した。昨年4月19日の初回はピアノの松本との「珠玉の名曲集」で完売。2回目以降は今どき珍しい往復はがきなどによる抽選で、入場券をさばいている。
シリーズのコンセプトは「好きなことをやる」。昨年11月8日の第2回には「何十年もの間、一度は手がけたいと熱望しながらソロの忙しさにかまけ、実現に至らなかった」という弦楽四重奏を持ち込んだ。もう1人のヴァイオリンが久保田巧、ヴィオラが川本嘉子、チェロは13年に解散した東京クヮルテットの初代メンバーだった原田禎夫が共演した。
曲目はベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第4番、第8番『ラズモフスキー第2番』、第16番」の3曲。全員が多忙で日程の調整からして至難を極めたが、前橋は「練習のすべてが新鮮で、勉強になった」といい、本番を終えた後は「すっかり四重奏の楽しさに目覚め、夢中になっている」。来年10月には同じメンバーとともにベートーヴェンの他の四重奏曲を携え、戸塚を含む全国ツアーに臨む。
今年4月18日の第3回は松本との「珠玉の名曲集」のアンコール。11月の第4回は若手奏者が弦楽合奏に集まり、前橋のソロでヴィヴァルディの合奏協奏曲集「四季」などを演奏する。来年4月23日の第5回はいよいよ、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(全6曲)のうちから数曲を選び、パガニーニら他の作曲家の無伴奏曲と組み合わせた完全ソロが控える。
バッハの「無伴奏全曲」はライフワーク
前橋が弾くバッハの「無伴奏全曲」といえば、1988年に半年を費やして録音し、音楽之友社の89年度「レコード・アカデミー賞」にも選ばれた全曲盤(ソニーミュージック)が余りにも有名だ。日本で小野アンナ、斎藤秀雄、旧ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)音楽院でミハイル・ワイマン、ニューヨークのジュリアード音楽院でロバート・マン、ドロシー・ディレー……と歴史的名教師に師事して、なお飽き足らなかった前橋はスイスに渡り、ヨーゼフ・シゲティ、ナタン・ミルシテインというバッハの名手の薫陶を受けた。チャイコフスキーやパガニーニの協奏曲を華麗に奏でる美貌の東洋人女性ヴァイオリニスト、というレッテルは前橋の一面しかとらえておらず、シゲティ譲りの深い楽譜の読みや、作品の懐になりふり構わず突き進む意思をバッハの音楽は待っていた。
やがて、前橋は6曲のソナタとパルティータを1回の演奏会で弾くようになる。最初は2007年5月、教授を務める大阪音楽大学のカレッジオペラハウス。すでにベテランの域に達していたが、かなりの準備と気力で臨んだ演奏会だった。以後、何年かに1度のペースで全曲に挑み、15年のシーズンは全国何カ所かで集中して弾く。皮切りは7月11日、横浜市の神奈川県立音楽堂だ。
「録音時点から25歳以上、年をとった。ずうっと弾き続ける中でヴァイオリン曲にとどまらず鍵盤曲や管弦楽曲、宗教音楽など様々なジャンルの作品に触れ、時には自らの楽器で奏でながら、バッハを究めてきた。ピリオド(作曲当時の仕様の)楽器にも足を踏み入れた。同じ楽譜を見ても、見え方というか音楽のつくり方は、かなり変わっている。それだけの時間を費やし生きてきた意味合いをかみしめ、今の自分が表現できるものを提示できればと思う」
(電子編集部 池田卓夫)