建築の常識を覆す 縄文晩期に軸組工法の出発点歴史新発見・石川県能登町の真脇遺跡

2015/6/30
切り出した丸太を板状に製材、先端を加工して突起を作り、へこみ部分のある木材と組み合わせる――。これまで弥生時代に始まったとされてきた建築技法が、ほぼ1000年遡る縄文晩期に始まっていた可能性が高まってきた。石川県能登町の真脇遺跡で出土した木材を詳細に検討、「輸入」と思われていた技術は「独自開発」の技術だったようだ。北陸では縄文時代の木製遺物が大量に出土しているほか、独特の遺構が多数確認されており注目が集まっている。
ほぞ付きの角材は水に浸して保管している。ほぞ以外の部分も板状に丁寧に削り製材した跡がよくわかる。(石川県能登町の真脇遺跡)

真脇遺跡で見つかった建築部材は長さ91センチ、幅16センチ、厚さ7センチの角材。先端に長さ10センチ、太さ6センチの「ほぞ」と呼ばれる突起状の加工が施されていた。3100~3200年前のヒノキ科アスナロ属のヒバを石斧(せきふ)などの石器を使って板状に丁寧に製材している。

角材は年輪の中心部となる芯の付近を避けて切り出されていた。芯に近い部分は節が多く、楔(くさび)を使って木を割ると不規則な割れ方になってしまう。また、芯に近い部分は変形しがちで、ひびが入りやすいのを避けたとみられる。

年2ミリの成長

首都大学東京の山田昌久教授(環境考古学)は磁気共鳴画像装置(MRI)を使うなど詳細な調査を実施。28日と29日に能登町で行われた検討会によると、角材は直径約20センチの丸太を加工したものだった。ほぞの部分は精巧に削られているものの、直線で構成された真四角ではなく、やや丸みを帯びていた。

年輪は約100。青森県の三内丸山遺跡で見つかった栗が年8ミリ~10ミリぐらいの成長だったのと比べ、かなり細い。三内丸山では人工的に栗を栽培したとみられ、日当たりに恵まれていたのに対し、真脇では樹木が密生した日当たりの悪い自然状態のままの中で育った木が切り出されたようだという。

この精巧なほぞ付きの建築部材が注目を集めるのはこれまでの建築史の常識に一石を投じるからだ。2つの木材を直角にほぞなどで接合する「仕口」加工は従来、弥生時代に始まったと受け取られてきた。

有名な静岡県の登呂遺跡や山木遺跡から出土した部材が木を組んで構築した分かりやすい証拠として知られている。それを裏付ける技術的な背景として、弥生時代になって鉄器が輸入されたことがあげられる。

ほぞなどの仕口加工は正確性が求められるので、石器で細かい作業を行うのは無理と考えられてきた。さらに、木を組み合わせた後の変形を防ぐため、乾燥して原木を安定させる技術も同時期に大陸から輸入されたとの説が広く受け入れられてきた経緯がある。

ところが今回の発見は、軸組工法が輸入技術ではなく、従来考えられたより1000年も前に独自の技術として作り上げられてきたと考えられるのだ。

縄文時代のほぞが付いた部材は忍路土場(おしょろどば)遺跡(北海道小樽市)と下宅部(しもやけべ)遺跡(東京都東村山市)でも見つかっているが、いずれも丸太の先端を削っただけでほとんど加工が施されていない。

桜町遺跡(富山県小矢部市)では木材に貫通した穴である「貫(ぬき)穴」のある木材が見つかっている。梁(はり)に対する桁のように穴に木を直角に差し込んだ場合、そのままではぐらつくので縄などを使って固定する必要がある。

山田教授は「ほぞなら縛らなくても止まる。真脇で見つかった部材が柱、梁、桁のどれだったかは分からないが、木が組める状態になっている。ほぞ穴のある木材が見つかれば申し分ないが、軸組工法の出発点であることは間違いない」と評価。「木と木をつなぐ軸組が出来ると、大きく高い建物や、複雑な構造の建築が可能になる」と意義を強調する。

真脇遺跡で環状木柱列はA環、B環、C環の3基確認されている。最大のA環の直径は7メートル。南側に位置する2本の柱とハの字型に置かれた三角柱で門扉状に配置されている。(石川県能登町)

環状木柱列が集中

真脇遺跡は縄文時代の前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)まで続いた全国的にも例を見ない長期定住集落だ。

真脇遺跡には北陸地方周辺に特有な独特の遺構がある。直径7メートルの円周上に半分に割った栗の木を約2.2メートルのほぼ等間隔に10本並べた環状木柱列と呼ばれる遺構だ。柱はいずれも割られた平たんな面が外向きで、円弧面が内側に向き弦の長さの平均は85センチだった。このため原木は直径約1メートルの幹を持つ巨大な栗が分割されたと推測されている。

木柱が立っていた地下部分の深さは1メートル。ほぼ同じ場所で6回立て替えられ、その際に柱は引き抜かず、地中部分を残して切り倒したようだ。残っていた木柱根で炭素年代測定を行ったところ、2800年前に作られたことが分かった。

現在は約7~8メートルの木柱を立てた形で復元しているものの実際に建っていた木柱の高さや地上の構造がどうなっていたかは不明だ。どんな用途や機能があったのかも分かっていない。

軸組工法など独自に発展させた技術を使い、屋根や壁のある集会所のような建物だったとする見方は少なくない。また、木柱だけが立つ聖なる空間あるいは記念物だったなど様々な見解がある。ただ、栗の巨木を探しだして伐採し、運び込んだ上で建造するのには集団による膨大な労力が必要だったことは間違いない。

チカモリ遺跡の復元した環状木柱列。木柱根が総計350点余りも見つかった。栗材が半割された巨大な木柱が幾重にも円形に配置されていた。典型的な例を高さ2メートルで復元した。(金沢市新保本町)
桜町遺跡の復元した環状木柱列。半割した栗材10本が並んでいたが、見つかったのは地下の柱根部分だけ。地下部分は約80センチで、高さ3メートルで復元した。(富山県小矢部市)

円形に木柱が立てられた遺構はほかにもある。貫穴のある建築部材が見つかった桜町遺跡でも栗材10本を並べた跡が見つかっている。約2700年前に建造されたとみられる。金沢市のチカモリ遺跡と米泉遺跡にもあり、石川県と富山県を中心に約20例の環状木柱列があるとされている。

ほぼ同時期に北陸地方周辺でよく似た形式で木柱列が建造されたことについて、名古屋大の山本直人教授(考古学)は『環状木柱列からみた縄文時代晩期の地域社会』で「北部九州に伝わった水田稲作農耕が西日本に拡大している時期にあたる。北陸の指導者層は水田農耕に基盤をおいた生活システムを拒絶し、狩猟民、採集民、漁労民としての儀礼を強化して地域共同体の紐(ちゅう)帯を強めるため」建造したと推定。新たなシステムや価値体系に対抗した結果、水田稲作が北陸で受け入れられるのに400~500年も要したのではないかとの考えだ。

同様の意見は多い。石川県能登町の「真脇遺跡縄文館」の高田秀樹館長は同遺跡のあった集落が縄文時代に4000年近くも継続した歴史を強調。「これほど巨大な木を伐採して収集、建造するには地域集団の団結力と膨大なエネルギーが必要だ。その力を対外的に発信、アピールするためだった」とみている。

高田館長ら真脇遺跡縄文館は、ほぞ付き部材が出土したことを受け、この部材を生かした形で軸組工法による掘っ立て柱建物を復元する予定だ。今年度に設計図を作成、同町内で材料となる原木をさがし2016年度に伐採、加工。17年度に組み立てて完成させる計画という。その一方で、まだ見つかっていない「ほぞ穴」のある木材の発掘を引き続き行っていく。

(本田寛成)

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