百万石の威信を懸けた「生き残り」のための庭
江戸時代には、各地の大名屋敷に巨大庭園が造られた。こうした大名庭園のなかでも、最高峰の一つに数えられているのが金沢の兼六園だ。
金沢城の隣に広がる兼六園は、「豪壮にして繊細。武家らしさもありつつ、京の文化から吸収した優雅さも備えている。大名庭園のなかでも、特に芸術性に心を砕いた庭だと思います」(京都造形芸術大学教授で庭園学が専門の仲隆裕さん)。
兼六園の名前の由来とは
大名庭園は、藩の財力を示すと同時に、文化レベルを広報するものでもある。また、作庭に巨費を投じることで「謀反の意思がないことを幕府にアピールしたとも考えられる」(仲さん)。広大な敷地に「兼六」の庭を築いた加賀藩にも、その思惑はあっただろう。
兼六は、宏大、幽邃(ゆうすい=奥ゆかしい静けさ)、人力、蒼古(そうこ=古びた味わい)、水泉、眺望の6つの景趣を兼ね備えた、無比の名園という意味。名づけたのは松平定信だ。
庭園愛好家として知られる定信に命名を依頼したのは、12代藩主・前田斉広(なりなが)。だが当時、庭の広さは現在の3分の1ほどで、残りは斉広が造営した大御殿が占めていた。
これを名実ともに「兼六」の庭に造り替えたのは、息子の13代藩主・斉泰(なりやす)である。斉泰は父が築いた御殿を解体。跡地に大きな池を掘り、掘り出した土で山を築いて、現在のような姿にしつらえた。
しかし、父の御殿建設事業で逼迫(ひっぱく)していた加賀藩の財政は、息子の造園事業でさらに悪化。財政を立て直せないまま、14代藩主・慶寧(よしやす)のときに明治維新を迎える。
これを藩主の道楽という人もあるが、斉泰には「文化・芸術の継承者たる自負があったのでは」と仲さんは言う。「どんなに懐が苦しくても、守るべきものは守る。伝統の技と美意識を後世に伝えなければ、と。強い思いを胸に秘めつつ、道楽といわれるほど彼は作庭にのめり込んだ。だから兼六園は、立派だけれど庭の風情に押しつけがましさがないのだと思います」。
それが加賀藩の生き残る道でもあったと、仲さんは指摘する。「芸術立国として次代を生き抜くには、人材の育成が不可欠です。こうした事業は職人を育て、雇用を生む。これも領主の大事な仕事」。
さまざまなドラマを秘めた庭。「ぜひ1人で訪れ、庭から聴こえる作者の声に耳を傾けてください」。
(ライター 大旗規子、写真 イマデラガク)
[日経おとなのOFF 2015年5月号の記事を再構成]
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