ライフコラム

法廷ものがたり

就職目前、親知らずの手術で舌に障害

2015/6/24

裁判記録をとじた厚いファイルを開き、埋もれた事案に目を向けてみれば、当事者たちの人生や複雑な現代社会の断片が浮かび上がってくる。裁判担当記者の心のアンテナに触れた無名の物語を伝える。

歯科クリニックで親知らずを抜いた後、舌の左側の味覚がなくなり、しびれたようになってしまった。新入社員の立場で仕事を休んで治療を続けたが元には戻らず、舌のせいでうまくしゃべれないコンプレックスもあって会社を辞めた。障害とともに生きていくことになった女性が、クリニックを相手取った訴訟を通して求めていたのは何だったのか。

左奥歯の痛みはしばらく前からあった。卒業前の最後の夏休み、ある地方都市に住む大学4年だった女性は、就職前に治療を済ませておこうと考えた。歯は丈夫で、それまでは歯医者に縁がなかった。アルバイト仲間に話すと、バイト先と自宅の中間にある歯科クリニックを紹介してくれた。

診断を受けたところ、親知らずの周囲で炎症が起きていて抜く必要があるという。人生初の抜歯手術。ギリギリという音が頭に響き、麻酔が切れると強い痛みを感じた。何度も麻酔を打ち直し、「こんなに時間がかかるのか」と不安を覚えた。

■舌の左半分にしびれと味覚障害

3日間が過ぎ、口を動かすのもつらかった痛みは和らいだが、口の中の違和感は消えなかった。舌の左側と歯茎がいつまでも麻酔から覚めないようにしびれている。熱い料理を口に含んだときや歯を磨くとき、舌にピリッと痛みが走った。

卒業論文の追い込み時期を迎えていた。紹介してくれたバイト仲間の手前、クレームを言いたくないという気持ちもあった。一番の理由は「時間がたてば良くなる」と信じたかったのかもしれない。クリニックを訪れたのは手術から2カ月後だった。

手術を担当した医師からは「よくあること」と説明されたが、処方されたビタミン剤を飲んでも症状は一向に改善しなかった。就職する前に何とかしたいと女子大生は三たびクリニックを訪れ、大学病院を紹介してもらった。病院で受診の結果を聞いて目の前が暗くなった。「舌の左半分に味覚と知覚がなく、回復は難しい」

かすかな希望にすがり、治療を始めた。神経縫合手術ができる病院は国内でもわずか。新幹線や特急を乗り継いで片道1日かけて通い、全身麻酔で10時間に及ぶ大手術を受けた。入ったばかりの会社で肩身の狭い思いをしながら、有給休暇を使って経過観察の通院を続けた。

夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になって治療は終わり、症状固定の状態になった。「手術前とそんなに変わっていないのに、もうこれ以上良くならないのか」。刺激に対する痛みは和らいだが、左の味覚はまったく回復せず、違和感が残ったままだった。話すときにろれつが回らず、舌をかんでしまうこともあった。

「舌がおかしいことを誰も知らない環境に行きたい」。せっかく入社した地元の優良企業を辞め、知り合いのいない都会で働こうと転職活動を始めた。転職先が決まった段階で、歯科クリニックに対して後遺症による逸失利益や慰謝料など計約1800万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。

クリニック側は医師の注意義務違反で神経を傷付けたことを認めたが、「味覚障害というほどではなく、転職後の収入が増えているので逸失利益はない」と争う姿勢を示した。

■「逸失利益なし」に反発、女性が和解案拒否

地裁は双方の主張を聞いたうえで、総額430万円の和解案をまとめた。精神的な苦痛に対する慰謝料分が350万円。休業補償が約9万円。調整金という名目で70万円を盛り込んだ代わりに、逸失利益の賠償は含めなかった。クリニック側は「慰謝料額に抵抗が残るが早期解決を図るべく和解に応じたい」と表明したが、女性は「申し訳ないが受けられない」と拒んだ。

「私が舌の不自由さに耐えながら仕事をがんばって収入が落ちていないことを理由に、クリニック側の賠償額が少なくなることは納得できない。舌が不自由でも日常生活や仕事に支障がないと自分で認めることになり、受け入れられません」

和解は不成立に終わり、地裁は判決を言い渡した。クリニック側に支払いを命じた額は総額422万円。「味覚障害が将来の家事労働にもたらす不便も勘案し、43年にわたって労働能力を2%損失した」として155万円の逸失利益を認めたが、女性の請求額のわずか14%にとどまった。慰謝料は和解案を大きく下回る220万円とした。

それでも女性が控訴しなかったのは、金額の問題ではなかったからなのかもしれない。女性は法廷に提出した陳述書で、訴訟を起こした理由について「区切りをつけて気持ちの上で前に進んでいきたい」と説明していた。その「区切り」を判決に見いだし、新しい一歩を踏み出せたのだろう。

(社会部 山田薫)

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