タクシー・サウダージ人生の機微雄弁に語る和風ボサノバ

埼玉県秩父市でタクシー運転手をしながらボサノバ歌手として活動する「タクシー・サウダージ」が5月28日、東京・渋谷のライブハウス、サラヴァ東京で公演した。秩父のタクシー運転手が60歳にしてデビュー。しかも歌うのは演歌ではなく、おしゃれと言えなくもないボサノバ。そうした意外性もあって、昨年のデビューは話題を集めた。

埼玉県秩父市でタクシー運転手をしながらボサノバ歌手として活動する=写真 市川 幸雄

彼はボサノバというブラジル生まれの洗練された音楽をポルトガル語ではなく、日本語でまっすぐに歌う。原語で歌っても本家にはかなわないし、借り物になってしまうという理由からである。

現在は、昨年のデビュー作「ジャ・ボッサ」に続く2作目となるアルバムを秩父で録音中。この日のライブはレコーディングに参加している演奏家たちがバックを固めた。そのため、まとまりの良いバンドサウンドを聴かせてくれたが、披露された曲の半数は次作に入れる予定の新曲だという。新アルバムの録音がうまく行っている証拠でもあろう。

タクシー・サウダージ自身は歌とギターを担当し、バックにはアルト・サックスやベース、ドラム、キーボードといった楽器群に加えて、ビブラフォンを重用する。山田あずさによるその流麗な共鳴音が、バンド全体の音にもう一つの妙味を与え、新風を送っていた。こんなところにも、決まりきったボサノバにはしたくないという彼の意図が透けて見える。

デビュー作に入っていた江間章子作詞、中田喜直作曲の有名曲「夏の思い出」はアルバムと同じように、彼のかわいいお孫さんがステージに登場して一緒に歌った。その巧みにボサノバ化されたほほ笑ましいバージョンも、アントニオ・カルロス・ジョビンの「イパネマの娘」を日本語にしたものも、新旧のオリジナル曲の数々も、この日の実演では無理なく同居していた。それはタクシー・サウダージの強い個性のなせる業であるだろう。

ビブラフォンの山田あずさ(右から2人目)がバンドの音にもう一つの妙味を加えていた=写真 市川 幸雄

ギターをリズミカルに爪弾きながら歌うタクシー・サウダージのテノール調の歌声は、悠々として、懐深し。その味はボサノバが抱えるブラジルへの属性をもう一つ別の場所に持っていくような印象だ。誤解を恐れずにいえば、タクシー・サウダージの表現は、洋楽が届けられるようになった世代による新しいムード歌謡になり得るといえるだろう。十分にバタ臭いのに、驚くほど無理なく日本人の感性に訴えかける。これは洋楽文化と邦楽の流儀の交差点にあるものではないか。

彼は10代後半のころから日本や世界のいろいろな土地を放浪した。インドにも向かったし、ボサノバにひかれてブラジルに出向いたこともあった。様々な経験を経て、生まれ故郷の秩父に定住し、タクシーの運転手を始めたのは40歳であったという。客待ちをしながらボサノバを弾き語りする姿が、やはり秩父在住の異才ギタリストである笹久保伸に見初められ、レコードデビューの機会を得た。それ以降「タクシー・サウダージ」と名乗るようになり、彼の人生は大きく動き始めたのである。

彼の表現は不思議な安らぎやワクワク感を与えてくれる。彼の大人(たいじん)風なたたずまいも、そうした印象を強めているようだ。満場の観客の年齢層は、他のボサノバの公演と比べるなら高めといえる。それはタクシー・サウダージの音楽が「回り道をするのもまた一興。人生捨てたものではないよ」というポジティブで包容力のあるメッセージを発しているからではないか。彼の表現には音楽を超えて語りかける物語があるのだ。

この日は、タクシー・サウダージの61歳の誕生日だった。還暦を過ぎて現在は嘱託となり、忙しい時期だけ、タクシーを運転する生活に変わったそうだ。余暇が増したことも幸いしてオリジナル曲も増えたというから、彼の新たな音楽人生はこれから佳境に入ることだろう。彼の音楽は、そんな彼自身の人生の機微を雄弁に語ってくれるのである。

(音楽評論家 佐藤 英輔)

「夏の思い出」を自身の孫(左手前)とデュエットするというほほ笑ましい一幕も=写真 市川 幸雄
昨年のデビュー作に続く2作目のアルバムを制作中。この日はレコーディングに参加しているメンバーがバックを固めた=写真 市川 幸雄
この日が61歳の誕生日だった=写真 市川 幸雄