博物館明治村、日本の近代遺産の巨大テーマパークけいざい半世紀(4)

明治時代の日本の産業遺産に今、改めて光が当たっている。早ければ6月中にも23施設が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に正式登録されそうだ。だが、忘れてはいけない。近代日本の産業遺産を保存する動きには、破格のスケールを誇る大先輩がいる。ちょうど半世紀前にオープンした「博物館 明治村」(愛知県犬山市)である。

財界人と建築家。明治生まれの同級生2人の酒席が生んだ破格の企画

名古屋鉄道などが中心となって1965年(昭和40年)3月、高度経済成長の影で消えゆく明治時代の建造物をそのまま残す「野外博物館」として発足した。テーマパークの先駆けでもある。最初に移築保存したのは15件だったが、現在は蒸気機関車など動態保存された車両や橋梁を含めた67件(10施設を含む12件が国の重要文化財に指定)に増え、敷地面積も2倍近い100万平方メートルに広がっている。

西郷従道邸(明治10年代)

「明治村」発足には、自身も明治生まれの男性2人が大きく関わった。名古屋商工会議所会頭なども務めた土川元夫・名古屋鉄道元社長(1903~74年)と建築家の谷口吉郎・東京工業大学元教授(1904~79年)である。労働組合委員長を経験した異色の経営者として知られた土川氏は、名鉄沿線の観光地開発や文化的ビジネスの開拓にもいち早く取り組んだ。一方の谷口氏は東宮御所やホテルオークラ東京本館メーンロビーの設計を手がけた建築界の重鎮。2人はともに、旧制第四高等学校(金沢大学の前身、金沢市)で学んだ。土川氏は「日本経済新聞」文化面で70年2月に連載した「私の履歴書」の中で「明治村の構想は谷口吉郎君と同窓会で酒を飲んでいる時に出てきた」と明かした上で、建設の意義をこう記した。

「明治の建築が日本の文化事業に重要な意味を持っているのは、次の理由による。つまり日本の国民生活が大きく変わった時期が二つある。一つはいわゆる大化の改新のころで、大陸文化が輸入された時代。次には明治時代であって、洋服を着たり頭をザンギリにしたり、また建築様式もいろいろと変わった。明治時代のものは今日まだ各方面にあるので、あまり重要視されていないが、天平勝宝の正倉院のように何年か経ると明治文化の貴重さが認識される。特に西洋人が設計し名人気質の日本の職人がつくった当時の木造建築は、建築者の話によるときわめて貴重な存在で、木造であるためここ数年でなくなってしまう」

1200年の時空を超え、飛鳥時代の大化の改新(646年)と明治維新(1868年)を一つの土俵で論じるだけのスケールが、当時の財界人には備わっていた。

谷口氏も高度成長、東京オリンピックなどで明治期の建造物が失われているのを惜しみ、同窓会で「何とか保存できないか」と土川氏に持ちかけたのだった。かつて、文明開化政策の華やかな外交舞台となった鹿鳴館(東京・日比谷)が取り壊されるのを無念にながめた経験に端を発し、後の明治村に発展する構想を温めていたようだ。博物館の初代「館長」にはもちろん、谷口氏が就いた。もう一つ、名誉職で宣伝塔役も期待される「村長」の初代は、マルチタレントの元祖とされる徳川夢声氏(1894~1971年)が「いなかの鉄道だが信用がおけそうだから」といい、快く引き受けてくれた。

ただ、運営が軌道に乗るかどうかは読みきれなかった。土川氏は東京の篤志家を回って「そんなばかな企画はやれない」と一蹴され、「やむを得ず名古屋に帰って重役会にはかった」が、「こんな採算を無視した計画は営利会社がやることではない、と否決された」と、「履歴書」で打ち明けた。その後の展開は「狂人がたまには成功することがあるものだ」とやや自虐的に振り返る通り、東京・千住に取得した明治村の用地が東京球場の建設予定地となり、大映の永田雅一社長(当時)に望外の高値で転売できた。「ばかの商売でもなかなか良いこともあるじゃないか。ひとつ明治村もこのばかなやつの言うことを聞いてはどうか」と風向きが変わり、明治村の建設に踏み切れたのだという。

「明治百年」で全国に名をはせる

転機はオープン4年目の68年に訪れた。「明治100年」ということで初年度約78万人だった入場者の2倍、約158万人の入場者が押し寄せて、全国区の知名度を確立した。

現在は敷地面積が倍増していることもあって、保存施設すべてを見ようとしても「とうてい1日では回りきれない」(明治村の松本卓也広報担当)。探索には、焦点を絞る必要がある。重要文化財を見るだけで3時間半、西洋建築中心に回って約3時間、夏目漱石ら明治の偉人ゆかりの建物コースで約2時間と、高齢者には十分過ぎる分量だろう。

最も人気があるのは、実は、明治の建物ではなく1923年(大正12年)竣工の「旧帝国ホテル中央玄関」である。来場者らの投票ランキングなどで、つねに1位を占めるという。9月1日の完成披露宴当日、関東大震災に遭遇したが、ほとんど損害がなかったとことで一段と名声を得た「伝説的つわもの」だ。設計は米国の著名な建築家、フランク・ロイド・ライト氏が手がけ、独自の質感を持つ大谷石に幾何学的な彫刻を施す一方、透かし入りのレンガも用いた。首都東京の表玄関に位置して海外の賓客らを数多くもてなし、長く近代日本を代表する建築物とされた。

旧帝国ホテル中央玄関(大正12年竣工)

70年(昭和45年)に大阪市で開かれた日本万国博覧会をにらみ、老朽化したホテルを建て替える計画が持ち上がったのは67年。看板ホテルであるにもかかわらず、客室数300室以下というサイズも災いした。当然、「帝国ホテルを守る会」が文化人を中心に結成され、「大震災にも太平洋戦争末期の空襲にも耐えた建物そのものが持つ芸術的、時代的価値を守ろう」と訴えた。反対運動はライト氏の母国、米国にも及んだという。

最終決断を下したのは意外にも、当時の佐藤栄作首相だった。67年11月、「沖縄・小笠原返還交渉」のために米国を訪れていた佐藤元首相は現地の記者会見で、米国人記者から旧帝国ホテルの先行きについての質問を受けた。「移築、保存が望ましい」とした佐藤氏は帰国後さらに、「明治村という所がある。明治村へ持って行けばしあわせだと思う。一部でも良いので」と付言した。同年12月には首相官邸へ関係者を招いて自ら保存を要請し、明治村への移築を実現させた。

ライト設計の旧帝国ホテルが最大の売り物に

全館丸ごとはとうてい無理な話で、実際に解体して明治村に運ばれたのは正面の中央玄関ロビー、ギャラリー、バルコニーなど。テコラッタや大谷石で組み立てられた柱、屋根銅板などの重量物も多く、約400トンはあった。比較的復元しやすい木造建築物とは異なり、レンガなどを固く連結してできた旧帝国ホテルを原型通りに再現するのには約17年、11億円の費用を要した。

明治村年間入場者数の推移

だが、入場者数は68年度の約158万人をピークに、多少の起伏はありつつも緩やかに下降していく。2002年(平成14年)には約38万人まで減少した。目下はテーマパークならではのエンターテインメント性を重視して、巻き返しをはかる。「楽しみながら学ぶ」がモットーだ。

エンターテインメント路線の象徴が食文化。「明治のグルメ」の復元である。03年には東京の汐留再開発で発掘された約100年前の赤レンガを使った「汐留バー」を開店し、日本初のカクテルといわれる「デンキブラン」などを提供する。「大井牛肉店」(明治20年ころ建築)では、文明開化を代表する「牛鍋」に舌鼓が打てる。日本のグルメ小説の先駆け、明治時代のベストセラーの村井弦斎著「食道楽」に描かれたコロッケも忠実に再現し、主力商品の一つに育てた。ちなみに村井弦斎は、同じ愛知県内の豊橋市の出身だ。

さらに家族向けとして始めたのが「明治探険隊」。広大な施設を利用した宝探しのゲームだ。ヒントを記述した冊子(250円から)を購入し、村内あちこちに隠されている「お宝」を獲得する仕組み。過去9年間で約40万人が参加した。「年齢層も小学校低学年から70代まで幅広く受け入れられた」(明治村の松本氏)という。

明治時代の女子学生を装い、明治村を散策する楽しみも用意されている

テレビや映画のロケーション地としても近年、存在感を増しつつある。NHK朝の連続ドラマでは「ごちそうさん」「花子とアン」と、立て続けに明治村をロケ地に採用した。明治村でも当時の女学生の衣装のレンタルなど、コスプレの楽しみまで用意している。

ただ忘れてならないのは、開村以来一貫する「博物館」としての役割だ。「これから先も、保存している施設をどう分かりやすく説明できるかに活動の中心はある」と、主任学芸員の中野裕子氏。たとえば開設当初から保存している重要文化財、三重県の「宇治山田郵便局舎」(明治42年築)。なぜ、たった1つの地方郵便局にこれだけ凝った装飾を施したのか? 「場所が伊勢神宮の外宮の角地に立てられた」ことが背景にある。「明治村に移築された建物は、元の地理や歴史が失われているため、一般の方にはパッと見てその価値や素晴らしさが伝わりにくい」(中野主任学芸員)から、詳細な説明は欠かせない。

アジア圏からの広域集客に活路

「これからの半世紀、いかに良い状態で保存できるか」(同)も、重要な課題。さらに外国人観光客の急増にどう対応し、呼び込むか。特に経済成長が目覚ましいアジア新興国からの観光客に対し、急激な近代化を達成した「明治の日本」をもっとアピールできるのではないかとみる。昨年、6代目館長に就任した中川武・早稲田大学前教授は、カンボジアのアンコールワット遺跡などアジアの建築物保存に力を入れてきた専門家だけに、アジア全体をにらんだ展開にも弾みがつきそうだ。中川氏は「ベトナム語やカンボジア語などでも明治村を紹介したい。建築物の保存では、好きな物件を特定して支援する『里親制度』を新設したい」と、意欲を語っている。

                   ☆

阿川佐和子さんが初の女性村長に

明治村にとって「次の50年」を占う節目の今年、初の女性村長が誕生した。4代目村長に就いたのは聞き上手のエッセイスト、阿川佐和子さん(1953年生まれ)。「明治村に関してはまだ、わかっていない」と謙遜するが、歴史的建造物の保存には20年以上前からかかわってきた。

明治村の4代目村長に就いた阿川佐和子さん

――古い建物に価値を見いだしたきっかけは何だったのですか。

「中学、高校時代を過ごした東洋英和女学院(東京・六本木)で昭和8年(1937年)築のウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年)設計、コンクリート造りの旧校舎が93年に取り壊されることになった時、多くの卒業生とともに保存を呼びかけたのが最初です。『せめて記録だけでも残そう』と前川国男さん、藤森照信さんら建築家に校舎を見学して書いていただいた文章、卒業生からはがきで募ったエッセーなどで記念誌を編さんしました。『大した建物じゃない』という声もありましたが、おてんば時代の滑り台代わりとなった階段の手すりの思い出ひとつ挙げても、戦前の在校生から私の世代、後輩たちが共有している。不特定多数の人が出入りして、世代がいくつも替わっても、同じ建物の中で共通の空気を吸い、ともに育つことの大切さを思い知りました。その後、藤森さん経由で土木建築シンポジウムの司会を依頼され、次はパネリストで……といった調子でどんどん、建築の世界に巻き込まれていったのです」

――明治の建築との出会いは。

「東洋英和の件を通じて知り合った関西大学教授で建築工学の専門家、西沢英和さんに負うところが大きいです。ばりばりの関西人、『いやあ、おもろいわ。同じ名前でとても人ごととは思えん』といった感じですが、地震と建築の関係を徹底的に究めています。阪神淡路大震災の時、明治時代の建物の頑丈さに驚き『本当にきちんと建てられた物は壊れない』と気づき、『明治人は柱ひとつとっても、実に丁寧な仕事をしていた』と痛感したそうです。ヴォーリズの設計に江戸時代から職人の技術との融合を指摘したり、日本伝来の住宅建築に潜むご先祖信仰に似た『動機』や『道理』を解き明かしたりして、効率優先の建築を疑問視してきました。藤森さんも『バブル経済の時代、すべて地震を理由に歴史的建造物や産業遺産の取り壊しが加速した』と指摘しています。私は何も『全部を残せ』と主張しているのではありません。耐震技術が飛躍的に進歩した今、歴代の人々がつくったものの本質を改めて見直すという、高度成長期にはかえりみられなかった視点を取り戻す時機にさしかかっているのではないかと、明治村から問いかけてみたいのです」

歴史を積み重ねた味わいを若い世代に

――単なるノスタルジーではないのですね。

女性村長は初めて。「今の若い人が日本人とは何か、日本はどこへ向かえばいいのかを考えるよすがにしたい」と抱負を語る

「明治時代を手放しで礼賛するつもりはありません。明治にもダメな人はたくさんいたし、派手な戦争を引き起こしたのもこの世代です。ただ人間らしい時間の流れは、あったと思います。私は『企業の四半期決算導入が日本をダメにした』が持論なのですが、現代は余りにも急激な展開の中に情報があふれ、何の覚悟も優雅さもないまま先へ先へと進むのです。東京都の石原慎太郎元知事は小説家でありながら(高速道路に上を覆われている)日本橋の景観を問題視する声が上がったら、『日本橋の方を移せばいい』と言い放ちました。17世紀から存在し、明治以降は全国の道の起点の道路元標が置かれ、国の重要文化財に指定されている名所です。何十年、何百年と積み重ねてきた歴史の味わい、意味を求め、外国人観光客も訪れる場所への尊敬が余りにも足りません。現在の明治村が担うべき役割は、こういう性急な時代なればこそ、今のフェアで優秀な若い人が『日本人とは何か』をもう一度見つめ、『日本はどこへ向かえばいいのか』を考えるよすがとなることです」

(電子編集部 池田卓夫)

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