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舞台・演劇

劇団イキウメ「聖地X」 日常の隣にある怪異、死と記憶巡る快作

2015/5/22

もし、もうひとりの自分が別の場所で生きていたら。自分が生きている「今ここ」の向こう側に異なる世界があったとしたら。ドッペルゲンガーと呼ばれる奇怪な現象を演劇のスリルに結実させた現代演劇の快作である。4年前に鶴屋南北戯曲賞を受賞した「プランクトンの踊り場」が改訂され、題を一新しての再登場だ。

上演するのは、集団の力が充実期に入った劇団イキウメ。人をくった名前は生きたまま、あちら側(死)の世界を垣間見るというほどの意味らしい。その名の通り2003年の旗揚げから、日常にふいに顔をのぞかせる怪異を演劇化してきた。劇団を主宰し、作・演出をになっているのは1974年生まれ、東洋大哲学科出身の前川知大。墓地にいると気持ちが落ち着くという異色の演劇人だ。日々の暮らしの裂け目にしみだすヘンなこと、コワイことをすくう言葉さばきはすでに一級品といえる。

舞台はたてじまの壁に覆われた無機的な空間。地方の地主の家、その近隣の貸店舗、都会のオフィスと空間はテンポよく変転する。自堕落なサラリーマンの夫に愛想をつかした若妻が実家の地主の家に帰る。そこではネット空間で全能感にひたる無職独身の兄が暮らしていた。近所の店に夫が姿を見せるが、記憶の半分がなく、オフィスにはもうひとりの分身がいるらしい。兄の先導で妹や友人が怪異の解明に乗り出してみると、超常現象を起こす場(聖地)の力が働いているらしい。

ドッペルゲンガー現象については、実際に起きたという報告が世界で後をたたない。それは真実なのか、観念が生む妄想なのか。自分とは何か、記憶とは……。

観客にさまざまな連想を抱かせつつ、劇はテンポよく進み、軽快にはずむ。役の転換によって場の空気も変位する演劇のゲーム性を体得した演出がうまい。日々の断片を今風の言葉で切り取る描写力も確かだ。細部の演技の輝きは、近年主流のプロデュース公演では味わえないチームワークのたまものだ。

夫の金銭感覚に憤り、ニートの兄の尊大さにあきれる若妻役、伊勢佳世のおかしさ。生き生きとした混乱ぶりが、日常の隣にある怪異を浮きたたせる。分身をひとり多役で演じる夫の浜田信也もフワリと奇妙な設定の中に入ってくる。おどろおどろしいオカルトにならないのがイキウメ流で「これって、ありうるかも」と見る者に信じ込ませてしまう機知がある。生の根拠などはなから信のおけないものだと告げるかのように、前川知大という劇作家は乾いた風を舞台に吹かせるのだ。

ドッペルゲンガー現象がおそろしいのは、分身同士が相手を見ると死んでしまうということだ。この法則をめぐって繰り広げられる騒動が劇を思わぬところへ運んでいく。決定力をもつ役者、安井順平が演じる兄が奇妙な現実を解き明かそうと嬉々(きき)として探索に乗り出す。記憶は情報なのか、それとも生身の身体をともなう実在なのか。袋を顔にかぶらされ、もがき苦しむ「記憶」の姿が激しく胸をゆさぶる。むろん演劇でしか表し得ない寓意(ぐうい)だ。生きた証しとしての記憶はクリックひとつで消去できるネットの情報と同じではない。それを消すことは人を殺すような身体的痛みをもたらすはずではないか。安井の演技力にたくした前川の渾身(こんしん)の訴えがそこにあっただろう。

ちなみに安井には、この兄役に通じる傑作舞台がある。ネットの王様をドストエフスキーの原作とからめて描く「地下室の手記」で、やはり前川の脚本・演出。2月に赤坂REDシアターで見た安井の独演はちょっとほかにないほど見事だった。岩本幸子、盛隆二、森下創、大窪人衛らキャラクターが浮き出る役者たちを見るのも、イキウメ観劇の楽しみである。

前回の「プランクトンの踊り場」が上演されたあと、東日本大震災が起きた。記憶と死をめぐる劇の言葉が再演で強さを増した背景にはあの破局があっただろうか。石に神をみる日本人の危うさ。前川はオカルトを描きつつ、同時にオカルト化する日本人を冷徹に批評する。再演でおうおうにして起こることだが、磨きあげたことで理が勝ちすぎるうらみはある。が、寓意劇としての輪郭は、いっそうはっきりしただろう。

たとえば、ゲームのように展開する「思えば現れる」現象。モノは認識する人間が「ある」と思うから「ある」。意識そのものがなければモノは「ない」。ものごとの因果もあると思うから「ある」。まるで禅問答だけれども、古今の哲学が考えてきたことである。前川はかつて力作「関数ドミノ」で、この不思議を追究している。ナンセンスな話もよくよく考えれば、一筋縄ではいかない。

哲学エッセーという領域を開き、46歳で亡くなった文筆家、池田晶子の言葉をめぐる思索を思い出した。死そのものは物質でないから目にすることができない。経験することもできない。つまり死とは言葉だ。死が言葉でしかないのなら自分が死んだとしても「さて死んだのは誰なのか」。至言を残して、彼女は現世から去っていった。

イキウメのドラマを見ていると、そんな哲学の問いを演劇という形式を用いて発していると感じることがある。シェークスピア後期のロマンス劇「冬物語」では、悔悟の時間をへて石像が人間になって歩き出す。言葉が舞台の「現実」を生み出す魔力が演劇の演劇たるゆえんだから。

演劇的にいえば、人間は虚実のはっきりしない世界を実は生きている。さてイキウメという言葉の含意――生きたまま死んでいる――はこのあとどう転回するだろう。

(編集委員 内田洋一)

5月31日まで、東京・シアタートラム。6月5~7日、大阪・ABCホール。

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