装飾品の枠越える腕輪の謎 日本海側で最大級の貝塚
歴史新発見 富山市小竹貝塚
市中心部から北西へ4キロ余りの小竹貝塚は東西約270メートル、南北約280メートル。貝塚が形成された縄文前期、周辺は汽水湖に面し岬状に飛び出した低丘陵の先端部分だったようだ。貝の大半はヤマトシジミである。
戦後に井戸を掘った時、貝塚があることは地元では知られていたが、数度にわたる調査を経て、北陸新幹線の建設工事に伴って行われた発掘調査で大量の遺物が出土した。
遺物の中でとりわけ注目を集めたのは埋葬人骨だ。「人骨を掘り出したらその下にも人骨があり、さらにその下にも骨がみえるという具合で、どう掘り進めていけばよいか途方に暮れる思いだった」と富山県埋蔵文化財調査事務所の町田賢一主任は話す。
状態の良い骨が大量に保存された理由は地理的な要因に尽きるという。標高は約3.2メートル。地表から約2メートルが粘土層で、海抜マイナス55センチまで約170センチにわたり貝層が続く。国内で多い酸性土壌の場合と異なり、貝殻のカルシウム分で有機物の分解が進むのを防ぎ、低湿地のため微生物などの活動が不活発なためだ。
縄文前期に今の富山県中央部に生きた人々はどこから来て、どんな特徴をもっていたのか。DNA分析が可能だった13体について、母から子に伝わるミトコンドリアDNAの解析が行われた。
その結果、現代の沿海州先住民や北海道の縄文人に多く見られる北方系タイプが最も多く、次いで東南アジア起源の南方系タイプ。このほかも旧石器時代にバイカル湖周辺で発生したと見られるタイプや、東南アジアから中国南部に多いタイプだった。中国東北部や朝鮮半島に多く、現代日本人の3人に1人が属するタイプはいなかった。
これまで蓄積されてきたDNA分析で、中期以降の北海道や関東の縄文人は北方系と南方系の広い地域から遺伝子を受け入れてきたことはすでに分かっていた。小竹貝塚でも同様の結果が得られたといえる。
調査した国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「形態学的には縄文前期とそれ以降では異なる形態をしているという説があったが、(小竹貝塚での分析で)前期と中、後、晩期のミトコンドリアDNAが共通であることから遺伝的連続性が確認できた」と成果を説明する。
「また、現代日本人に一番多いタイプが見当たらないことから、これが(間接的に)渡来系弥生人によってもたらされたと判断できる」と、縄文から弥生を経て現代に続くDNAの道筋を解説する。
人骨以外にも多様な遺物が出土した。ヒスイの加工品は新潟県柏崎市の大宮遺跡で発見されたのと同時期の国内最古級。タイの歯と漆を使った象眼細工もあった。関係者の目を引いたのがオオツタノハの貝殻をくりぬいて作った腕輪で、貝輪と呼ばれる。日本海側で最古のオオツタノハの貝輪と見られる。
縄文人は驚くほど様々なアクセサリーを制作し、身につけた。土器、石、骨、角、牙、歯、貝など身近なあらゆる素材を使って髪、耳、首、腕、腰、足――に装飾を施した。
貝輪に使われた貝はイタボガキ、ベンケイガイ、サトウガイなど数種類に限られるようだ。オオツタノハが注目されるのは、生息域が伊豆諸島南部以南と、大隅諸島より南の島々に限定される珍しい貝だからである。海を渡るにも丸木舟しかない時代に離島の貝で作った装飾品を何のためにどのように運んだのだろうか。
オオツタノハの研究を精力的に行う千葉県市原市埋蔵文化財調査センター、忍澤成視主査によると、これまでに縄文時代から弥生時代にかけての約70遺跡でみつかったオオツタノハ製貝輪は愛知県から東の太平洋側に偏っていて、北は北海道にまで達している。
この地域で見つかった貝輪は約5000で、うちオオツタノハは200余り。市原市の大貝塚である西広貝塚から15点出土というまれなケースはあるが、規模の大きな遺跡で2、3点、多くは1つの遺跡から1点だけ。希少な遺物なのだ。
オオツタノハは波が強く当たる切り立った岩場に生息。貝殻には迷彩を施したように海藻やフジツボなどがびっしりと付着している。実質的に大潮の最干潮時間帯にだけ姿を現し、見分けにくいだけでなく、強い力で岩に吸着している。
伊豆諸島の三宅島や御蔵島、八丈島などで生息調査を行った忍澤さんは「貝殻が10センチ以上の大きさのものもある。滑りやすい岩場で強い波を受けながらオオツタノハを見つけて取る困難さは採集というより捕獲と呼ぶ方が適切」と多大な労苦を伴うことを説明する。
作業は取った後が本番だ。貝殻にびっしりと張り付いた付着物をきれいに取り除き、磨き上げなければ装飾品である貝輪にはならない。遺跡で流通しているのは研磨された完成品の状態のものが大半で、忍澤さんが硬い砂岩などを素材とした砥石で実験したところ、オオツタノハの表面は他の貝に比べると表層部分が厚く、1つにつき4~5時間は必要だった。
オオツタノハの貝殻は重量感があって肉厚。出土品では分かりづらいが、貝本来の表面の色は濃いピンクやエンジ系の色が2筋放射状に伸びているのが大きな特徴だ。簡単には手に入らない希少性に、美的な質感が加わり貴重品としての価値を高めたと見られる。
小竹貝塚にはどのように持ち込まれたのだろうか。三宅島と伊豆大島、三浦半島南岸の海食洞穴に数十単位で未完成の加工跡があるオオツタノハが出土した遺跡がある。伊豆諸島から持ち込まれ三浦半島南岸で貝輪の最終仕上げをし、運搬するケースがまず想定できる。
一方で日本海北上ルートも考えられる。これは佐賀市の東名遺跡(縄文早期)から約7000年前のオオツタノハの貝輪の発見が昨年公表され、有力な案として浮上した。大隅諸島以南の島から九州を経て日本海側沿いに伝わる道筋だ。いずれにしても大変な広域にわたる物資の移動になる。
オオツタノハが多くの遺跡で1点しか出ないということは、その遺跡が珍しいモノを入手できる集落だったことを意味し、地域の中心的役割を担っていたと考えられる。「オオツタノハの有無は遺跡を見る上で縄文時代の絶対的メルクマール(指標)。単なる装飾品と異なりヒスイと同じように祭祀(さいし)にも用いられたのではないか」と忍澤さんは推測する。
オオツタノハの貝輪は遠く北海道洞爺湖町の入江・高砂貝塚(縄文前期から晩期)でも発見されている。ヒスイの美しさや珍しさは一目みれば明らかだ。だが、オオツタノハの持つ価値が縄文時代にこれほど広範囲に共有されるプロセスは単純ではありえない。
共通認識が広がり浸透するには1000年単位の時間が必要だったろう。縄文後期から出土が急増することからもそれがうかがえる。しかし、海を隔てたはるか南の島から多大な労苦の末にもたらされた貴重な腕輪であることが前期の日本海側にも知られていたことが明らかになったのだ。今回の発見は新しい謎を浮かび上がらせる。
(本田寛成)
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