池玉瀾 大雅亡き後に求めた独自性
ヒロインは強し(木内昇)
江戸時代、ともに絵師だった池大雅と玉瀾(ぎょくらん)は、少々風変わりな夫婦だった。寛政二年に編まれた伴蒿蹊(ばんこうけい)の「近世畸人伝」にも夫婦の逸話が登場する。例えば大雅は、山水を描いた扇が売れ残ると、「龍王を祀る」と湖水に投じたらしい。玉瀾も、夫が忘れた筆を付き人に届けた際、なぜか妻とは名乗らない。「道人おしいただき、いづこの人ぞ、よく拾い給りし、とて別去る。妻もまた言なくて帰れり」。
夫婦揃ってお金には無頓着。富豪から揮毫を頼まれても、気が乗らぬと仕事にかからず、痺れを切らした使いの者から面罵されてもいる。部屋も整理整頓とは無縁。紙だの絵具が散乱する中、ふたりは思い思いに絵を描き、酒を酌み交わし、仲良く鍋をつついた。大雅が三味線を弾き、玉瀾が琴を奏でて楽しむひとときもあったようだ。貧しくはあれど、自由で豊かな暮らしぶりなのである。
玉瀾は京都の祇園に生まれている。実家は水茶屋を営んでおり、美人で教養人だった母から和歌や絵を教わった。のちに文人画家・柳沢淇園(きえん)より日本画の基礎を学ぶも、彼女が衝撃を受けたのは、年齢の近い大雅の画だった。中国の南宗画をアレンジした画風は、細い線を重ねて草の柔らかさや木々の生命力を見事に表している。日本画特有の潔く力強い墨線、繊細な濃淡による表現とは一線を画した独創的な創作だった。
玉瀾は夫の人柄以上に、その才能に魅入られたのだろう。自分が画を書き続ける上で不可欠な人物として大雅を認めたのかもしれない。彼女が結婚を決めたのは、二十四歳のとき。結婚後、ふたりは絵の共作もし、そのおしどりぶりはつとに有名だった。
絵のかたわら、玉瀾は母から祇園の茶屋を継いでいたが、大雅はよほど愛情深い人だったのだろう、自分亡きあと妻が困らぬよう支度している。「大雅堂画法」なる絵手本もそのひとつ。これをもとに教室を開くなり、玉瀾が絵を描くなりすれば経済的に安泰だ、と彼は考えたのだ。
ところが玉瀾は、結婚二十五年目に夫が亡くなると、独自の画風を確立するため研鑽をはじめるのだ。もしかすると「大雅堂画法」は、彼女が亡くなるまでほとんど開かれることがなかったかもしれない。そう思えば、妻を案じた大雅が不憫にもなる。
けれど妻にしても夫を裏切るつもりは微塵もなかったように思う。彼女はおそらくその最期まで、才能豊かで価値観が合う大雅を愛してやまなかった。ただ、ふたりで創作することで、相乗効果を生み出せる反面、歩み寄らざるをえない部分に対するもどかしさもあったのだろう。ために玉瀾は、自らが目指す極みを一度存分に突き詰めたかったのではないか。
玉瀾に限らず、女性の多くが「伴侶」を務めつつ、独自の世界を密かに培っている。その「己」が、独りになったとき誰に遠慮もなく開花するのだ。現代においても老年の域にある女たちが吹っ切れたように元気なのは、この辺と関係あるのかもしれない。
[日本経済新聞朝刊女性面2015年3月21日付]
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