ライフコラム

ヒット総研の視点

つらい入院・手術の処置を検証し、減らす病院が増加中 日経BPヒット総研 黒住紗織

2015/3/19

日経BPヒット総合研究所

 エンターテインメント、トレンド、健康・美容、消費、女性と働き方をテーマに、ヒット案内人が世相を切るコラム「ヒットのひみつ」。今を象徴するキーワードから、話題の理由、面白いワケなど、「ひみつ」を明らかにします。今回のヒットワードは「新しい入院手術管理プログラム」。患者はもとより、国にも病院にもメリットがある“三方良し”の医療現場の新しい動き「ERAS(イーラス)」を取り上げます。

 前日は夕食から絶食で、当日は水分を口からはとることができず、下剤や浣腸で腸の中を空っぽにしてから手術室へ。術後もしばらくはチューブからの経管栄養で、トイレにも行けず、しばらくは痛みと向き合いながらベッドで安静にしていなければならない―――。手術を受けた経験がある人ならだれでも、あの時の不安感や不快感、そして緊張感を思いだすはずだ。

 長らく日本の医療現場では、消化器系の疾患に限らず、どんな部位の疾患でも手術といえばこれが当たり前の風景だった。だが4、5年前からこのような不快な処置や投薬を伴う手術・入院生活を改革し、患者の苦痛を取り除きながら、体力を早く回復させるというプログラムを導入する医療機関が増えてきている。新しいプログラムの呼び名は「ERAS=Enhanced Recovery After Sergery=術後回復能力強化プログラム」という。

手術前の風景も変化。ERAS導入後は、ベッドで運ばれるのではなく、自分で手術室まで歩いて行く(写真提供:谷口教授)

 実は、これまで私たちが当たり前のこととして、がまんして受け入れてきた術前の長時間の絶飲食や(大腸の手術以外の)下剤の使用、剃毛(ていもう)、術後の長期におよぶ点滴や管類の使用、術後の飲食制限などの中には、根拠がないまま慣習的に行われてきた医療行為が少なくないという。日本の手術の治療成績は諸外国に比べて高いがゆえに、従来のやり方に疑問を呈する意見が出なかった。だが、海外では術後の合併症率などの高さを改善するために、従来のやり方を科学的に検証する必要性に迫られるなどの事情があり、2001年ごろから北欧で見直しが始まったのを皮切りに、欧米を中心に検証が進められた。その結果をまとめてプログラム化したのがERASプログラム。

 「現在では、英国、オランダ、スペインでは国家戦略として実施され医療費削減に貢献している」と神奈川県立保健福祉大学の谷口英喜教授(麻酔科医)は解説する。その他に、ドイツ、フランスでも導入され、中国、韓国でも動きがあるという。

■「食べられる」「痛くない」「早期に動ける」

 たとえば従来は、全身麻酔の患者の嘔吐(おうと)や誤嚥(ごえん)を防ぐ目的で術前は絶飲食とされていたが、長時間の絶飲食は患者にのどの渇きや空腹感という苦痛を与え、脱水や低血糖などの合併症を増やすこと、そして多くの研究を比較した研究から、術前の絶飲食は内容(日本では経口補水液が用いられている)を守ればもっと短時間にしても安全性は確保されることが明らかになった。

 また、下剤の使用は、術前の脱水症や消化管の縫合不全を増やす原因になることや、術後に早く口から食事をとっても安全で、縫合部の傷の治りが早まることなども分かってきた。

四谷メディカルキューブの「ライト食」。ヨーグルト、焼きたての白パン、 グリーンピースのポタージュ、すりおろしたりんごが、手術後の夕食から食べられる

 「口から食事をとれば腸の動きが良くなり、腸閉塞のような合併症が起こりにくく、吐き気や嘔吐が減る。また、免疫力の低下も防げるため、傷の回復が早まる。早く元気になれば患者さんの転倒の心配も減る」と話すのは、12年から全診療科でERASを導入している四谷メディカルキューブ(東京都千代田区)麻酔科の白石としえ部長。

 同院では、午前中の手術の場合、前日の午後11時までは食事が可能で、水は手術の2時間前まで飲める。術後の水分補給のための点滴はなく、2時間後から経口補水液を自分で飲んでもらう。食事も手術当日の夕食から、「ライト食」と呼ぶポタージュ、パン、ヨーグルトなどが食べられる(写真)。早い人は手術当日からベッドを起こし、看護師などのサポートを受けながら歩くように促すという。

 「患者さんから、『浣腸しなくていいの? 夕飯も食べていいの? もう歩いていいの? 思ったより楽でよかった』という声をよく聞くようになりました」と同院の看護師の一人は話す。「現場が切り替えに慣れるまでに1年くらいかかったけれど、不要になった処置も多く、患者さんが自分で歩いてトイレに行く時期が早まることで、仕事量はおおむね軽減したと思う。もちろん、すぐに食事を出すなど増えた仕事もあるけれど、患者さんがより喜ぶ状況につながるのはうれしい」と同看護師。「痛みがない、早くから動けることは患者さんの満足度アップにもつながり、ストレスも減る」と白石部長は説明する。

 食べられる、痛くない、動ける……。医療機関によって内容は多少異なるものの、図1にまとめたような様々な投薬や処置が見直されることで、患者は苦痛の少ない入院生活が送れる。「痛みを訴える前に積極的に鎮痛薬などを使うことで、ダメージをできるだけ減らして、手術の前後でも日常に近い生活ができる環境を整え、回復能力を高める。そうすることで在院日数を減らすことができ、医療者の作業も簡素化できる。ERASは“新薬を使う”わけではなく、今ある医療現場のスキルで達成できるプログラム」と谷口教授は強調する。

図1

 「ERASを導入してから、術後の疼痛(とうつう)管理も考えて麻酔管理をするように変更した。以前は術後に痛みを訴える患者さんが少なからずいたが、硬膜外麻酔や神経ブロックを積極的に行ったり、鎮痛薬を予防的にのんでもらうことで、今はそうした患者さんは減った」と白石部長。

図2 神奈川県立がんセンターで食道がん手術を受けた71例での成果(データ提供:谷口教授)

 治療成績も改善する。在院死亡数の減少のほか、術後再入院の割合が減ったという報告もある(図2)。

■高齢患者の認知力、筋力低下の予防にもメリット

 ERASの導入の真骨頂は、患者が多くのメリットを受けられる点。特に注目したいのが在院日数の短縮という側面。忙しい現代人の中には、入院の日数が長いことが壁になって治療を後回しにしている人もいる。早く社会復帰できるERASはそうした人の助けになるうえ、入院費の低減にも直結する。加えて、高齢患者の寝たきりや認知力低下を招きにくい点も見逃せない。高齢患者の場合、自分で食べたり動いたりできるようになるまでに時間がかかるほど筋力が落ち、認知機能が低下して、“せっかく病気は治ったのに、認知症になってしまった、骨が弱ってしまった”といったケースが少なからずあるからだ。

 もう一つの視点は、国の医療費が削減できるという側面。厚生労働省の調査によると13年の日本の急性期病院の平均在院日数(全国)は17.2日。経済協力開発機構(OECD)12年発表のデータでは、10年の日本の18.2日に対し、米国は4.4日、英国7.7日、スウェーデン5.7日で、日本は加盟34カ国中、急性期の平均在院日数が最も長い国だったという。

 これに対し、北海道の手稲渓仁会医療センターが大腸がん手術をした患者を対象にERAS導入した患者群(20人)と非導入患者群(27人)を比較した研究(12年)では、入院期間は3.1日短縮され、1入院(1症例)あたりの総医療費(レセプト金額による比較)は12万2000円削減でき(3割負担の患者の場合、3万6600円の医療費削減)、使用する薬代(投薬と注射)は1症例で8300円削減したという[注1]

[注1]第2回北海道DPC研究会学術集会2012 手稲渓仁会医療センター

 総医療費の削減は、病院側から見ると収入減に直結しそうに見える。だが、そうとばかりはいえない。患者の在院期間が短縮されることで病床の稼働率は上がり、手術件数も増やすことができるため、収益率を上げることが可能になる(図3図4)。

 病床数が19と少ないことから、もともと積極的に最新医療技術を取り入れ、医療の質を落とさずに入院日数を短縮化して稼働率を上げる努力をしてきた四谷メディカルキューブでも、ERAS導入前(11年度)の平均在院日数3.7日が、13年度は3.0日になった。入院収入は約15%増加したという[注2]

 また、日本の保険医療では手術の内容ごとに保険点数が決まっている「DPC包括入院料」という方式を導入しており、それに該当する病院では減らせた薬代がそのまま収入増につながるという面もある。

図4 同院の病床稼働率の推移

[注2]日臨麻会誌;34(5),705~713,2014

■安全性のデータを積み上げ、保守層を説得する努力が必要

 ERASを導入している医療機関はまだそれほど多くはなく、全病院の5分の1程度という。「同じ病院の外科でも、医師によって導入していたりしなかったりというところもある」と谷口教授。「早期退院して安全性は本当に担保されるのか、といった心配を抱く患者さんや医療者もまだたくさんいる。もっと多くの成果データを積み上げることで推進を呼びかけていく必要がある」と白石部長も話す。

 確かに、医療技術が高く治療成績がいい医療機関では、あえて現状の仕組みを変えることへの抵抗が小さくはないだろうが、「ERASの導入で現場の仕事が増えると思われがちだが、やめる作業のほうが圧倒的に多いので負担は減る」と谷口教授は強調する。

 むやみに「早期離床」を促すことがいいとは限らない場合があることも考える必要はある。入院には、休養が必要なのに普段は休めない会社員や主婦などが、治療しながら休養をとれる機会といった側面もある。北欧などでは、退院した後にそうした人を受け入れる仕組みもつくってERASを促進しているという。導入を促すためには、病院の中だけでなく、患者に寄り添う形でそのメリットを伝え、社会で仕組みを作っていくことも必要だ。

 医療経済の現状から見ても、「諸外国に後れをとってはいるが、国が数年後にはこのプラグラムを後押しする動きが出てくると確信している」(谷口教授)。この先、このプログラムがさらに普及し、同じ病気の同じ手術で病気は同じように治るのに、選んだ病院によって「食べられる」「痛くない」「動ける」といった快適さが享受できるかどうかが違ってくると知ったら、患者は快適な病院を選ぶのは当然。プログラムを導入する医療機関が増えれば、それを支える医療器材や薬、食品などの市場にも新しい市場が開けるはず。ERASの普及には、医療業界の新しいビジネスチャンスも隠されている。

黒住紗織(くろずみ・さおり)
 日経BPヒット総合研究所主任研究員。日経BP社ビズライフ局プロデューサー。サンケイリビング新聞社を経て、90年、日経BP社入社。『日経レストラン』『日経ベンチャー』などの記者を経て、2000年より『日経ヘルス』編集部。その後『日経ヘルスプルミエ』編集部 編集委員など。女性の健康、予防分野の中で、主に女性医療分野を中心に取材活動を行う。
[参考] 日経BPヒット総合研究所(http://hitsouken.nikkeibp.co.jp)では、雑誌『日経トレンディ』『日経ウーマン』『日経ヘルス』、オンラインメディア『日経トレンディネット』『日経ウーマンオンライン』を持つ日経BP社が、生活情報関連分野の取材執筆活動から得た知見を基に、企業や自治体の事業活動をサポート。コンサルティングや受託調査、セミナーの開催、ウェブや紙媒体の発行などを手掛けている。

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