芥川賞の小野正嗣 土地に育てられた幼少時代

日経DUAL

共働き家庭の子どもは、両親不在の時間をどのように感じているでしょうか。2015年1月15日に『九年前の祈り』で芥川賞を受賞したばかりの作家・小野正嗣さんに、共働き家庭で育った子どもの思いを聞きました。心に残るご両親の教えや生まれ育った土地から受けた影響などについて語ってくださいました。

忙しく働く母親を喜ばせたい幼心からお手伝い

―― 子どものころ、建設業で働いていたお父さんだけでなく、お母さんもフルタイムで働かれていたそうですね。

小野正嗣さん(以下、小野) おふくろ――「おかあ」と普段は呼んでいますが――は、とにかく働き者でしたね。僕が子どものころは、主に養殖真珠の作業場で核入れ職人として働いていたんですが、大きくなってからは、それ以外にも化粧品の販売、父や兄と一緒に出稼ぎに行った建設作業の宿舎での食事作り、そしてここ15年はヘルパーをしています。最近は、これは無償のものですが、地区の民生・児童委員の仕事をしています。

こうした昼間の仕事に加えて、冬の夜にうなぎの稚魚漁に出て、卸業者に売ったりしていた時期もありました。そういうときには、仕事から戻って家族と夕飯を食べて後片付けをしたあと、防寒着を着込み、網とカーバイトランプを持って、寒い中、出かけて行っていました。

今から考えてみても、本当によく働いていましたよね。兄も僕もそんな働くおふくろの姿を見ながら育ったので、母親とは働くものだと思っていました。

お兄さんとは協力して両親の帰りを待った。芥川賞受賞作『九年前の祈り』は、昨年他界したお兄さんの死を意識して書いたものだという

―― 小野さんは、家のお手伝いはよくされましたか?

小野 兄も僕もそれなりに手伝っていたとは思います。

忙しく働きながらも朝食や夕食などはきっちりと用意し、おやじと自分の弁当、それから僕の田舎の小中学校には給食が無かったので、兄と僕の弁当を作るおふくろの姿を見ていると、えらいなあ、大変だなあって思いますよね。おやじも肉体労働で疲れているのは分かりますが、仕事を終えて帰ってきたら家事は一切しない。けれど、おふくろはフルタイムで働きながら、炊事、洗濯、掃除のすべてをしていたわけですから。少しでも母に協力したいというか、楽をさせてやりたいなと。

兄が洗濯物を入れて、僕が畳んだり、お風呂を交替で洗ったり。土曜日の昼間もきちんと用意してくれていましたが、食べ盛りですから、それでもおなかがすくとインスタントラーメンを作って食べたり……。

「やってくれたら助かる」と言われたくらいで、頼まれたわけではありませんが、手伝うとおふくろが喜んでくれるからうれしくなって、いつの間にか家のことを手伝うのが習慣になりました。

誰もいない家に向かって「ただいま」「おかえり」

小野 僕自身はよく覚えていないんですが、おふくろがよく笑いながら僕に話すことがあるんです。いつも学校から帰ってきたら、誰もいない家に向かって「ただいま」「おかえり」と自分一人で言いながら入っていたとか。近所の方がそれを見ていたらしくて、おふくろに報告してくれたそうです。その話を聞くたびに、我ながら恥ずかしくなりますけど。

―― 小さな子どもなりに、寂しさを紛らしていたんでしょうね。

小野 やっぱり、まだ子どもですから、寂しくないわけがない。おふくろが働いていた養殖真珠の作業場は僕らが住む浦から2つ先の浦にあって、湾を挟んで向こう側に見えるんです。その方向を眺めていると、時々無性に母親の顔を見に行きたくなることもありました。

小野正嗣 1970年大分県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。パリ第8大学文学部博士課程に留学。フランス語圏カリブ海地域文学を研究。2001年『水に埋もれる墓』で第12回朝日新人文学賞、02年『にぎやかな湾に背負われた船』で第15回三島由紀夫賞、同年に第1回東京大学総長賞、13年早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞。15年1月15日に『九年前の祈り』で第152回芥川賞を受賞した。立教大学文学部准教授。

とはいえ、家から5~6キロ離れているので、子どもの足で歩いていくとなると厳しい。それで道路に立って顔見知りの牛乳配達のおじさんが通るのを待ち、そのトラックに乗せてもらっておふくろのところに連れていってもらったことが何度かありました。

仕事場に行くと、おふくろは「仕事中じゃ」と困った顔をするんですけど、便もないのでむげに追い返すこともできず、しょうがないなという感じでしたね。結局、そのまま作業場で邪魔をしないようにおふくろの働く姿を見ていました。その間、おふくろの仕事仲間のおばさん達が親切に話しかけてくれたり、相手になってくれたりしたのを、覚えていますね。

幸いなことに、僕の場合は両親と過ごす時間が少なくても、牛乳配達のおじさんや母親の仕事仲間など、常に地域の人々の温かい目がありました。一人で遊んでいると、隣の家に住むお姉ちゃんがひょいっと壁を乗り越えてきて一緒に遊んでくれたり、近所のお兄ちゃんが鉄棒を教えてくれたりしたこともあった。

家の近くに住む血のつながらない家族に育ててもらったようなものです。このことは、共働き家庭に育った僕にとっては、とても大きかったのではないかと思います。

“会話の貯金”で反抗期も乗り越えられる

―― 子どもと離れている時間を埋めようと、一緒にいる時間にご両親が工夫されていたことはありましたか?

小野 そうですね。僕達は病気をしても、特に優しくしてもらったこともありませんでしたからね。むしろ嫌な顔をされた。仕事を休むわけにはいかないですからね。共働きだからとはいえ、とりたてて優しく接しようとしていたとかは感じたことがありません。そもそも集落のどの家も共働きでしたから。

ただ、一緒にいる時間はとにかくよく話をしてくれました。僕は、家の中で言葉が循環していることがとても大事だと思うんです。「今日学校でこんなことがあったよ」という話を、親はしっかりと聞いてあげる。そのうえで、親自身がその日一日何をしていたのか、どんなことがあったのかを話して聞かせるのも大切だと思います。

うちの両親は外で遭遇した出来事や仕事場で起こった話をよくしてくれました。おやじは怒ると恐ろしかったけれど、話はおもしろかった。どこで聞いてくるのか、いろんな滑稽な事件や人物について語り聞かせてくれました。

おふくろもそうですね。例えば、おふくろがうなぎの稚魚をこっそりと捕まえていたら、警察官らしき人が来たので焦って逃げて、岩場に足を取られて転び、バケツの中身をぶちまけ、せっかくの稚魚を全部逃がしてしまった話とか。そんな話をおもしろおかしくしてくれるのを、笑いながら聞いていましたね。

すごいなと思うのは、いったん僕ら兄弟が何か話し始めると、おふくろは必ず耳を傾けてくる。仕事で疲れているだろうに、「今は忙しいから」とか「疲れているから」とか、そんな大人の事情で話を遮ったり、後回しにしたりすることは一切なかったですね。家事で手を動かしながらも、ちゃんと聞いてくれる。夜、みんなが食卓に揃ってご飯を食べるときに話をして、食べ終わった後も会話が続いていましたからね。

反抗期のころになると、やはり一時的にしゃべらなくなったこともありました。でも、小さいときに家族でしっかりと会話を重ねてコミュニケーションを取っていると、“会話の貯金”みたいなものがあるからか、反抗期を過ぎたらまた自然と会話が戻ってくるような気がします。

―― 家族の団らんが、家族の心をつなげていたのですね。

小野 当たり前のことですが、親と離れている時間が長い子どもにとって、最も心配なのは「ちゃんと親が自分に関心を持ってくれているかどうか」じゃないでしょうか。

それは、共働きの家庭でも、親がずっとそばにいる家庭でも、変わらないことだと思います。たとえ母親がずっと家にいる家庭でも、何も話さず関心を持ってもらえないのなら、つながっていないのと同じことでしょ。人をつなげるのは、言葉。そして、言葉を語るときのしぐさやまなざしです。

賢い人がいたらよく話を聞くこと、と教えられた

―― ご両親との会話や教えの中で、今も心に残っていることはありますか?

小野 おやじとおふくろは、家族に限らず、人の話を聞くのがとても好き。そんな両親が僕達によく言っていたのは「我々は田舎もんで知恵が無いんだから、賢い人がいたら、よく話を聞け」ということでした。それで、僕も人に素直に教えを請う習慣が自然に身に付いたような気がします。

同時に、はっきり言葉にしていたわけではないですが、人を粗末にしないという態度が両親によって家族で共有されていました。そのころは当たり前の光景だと思っていたけど、いろんな人がうちにやって来ては楽しそうに話をしていました。酔っ払いが来ていて嫌だなあと子ども心に思うこともありましたが、両親はいつどきも温かく迎え、うんうん、と話を聞いていた。

今思うと、そういう両親の態度から、「世の中には話を聞いてもらえない境遇の人がいる。そんな人達を見捨てたり、見下げたりしてはいけない」ということを学んだのでしょうね。僕の小説に、障害を持つ人やマイノリティーで困難を抱えながら生活する登場人物が多いのは、もしかするとそのことと無関係ではないかもしれません。

小学生のころ、近所の子ども達と神社の神楽の舞い手をしていた。右から3人目が小野さん

―― 作家になったのも、ご両親の影響が大きかったのですか? 

小野 小学校の図書館で借りてきた本を読むのは嫌いではなかったけれど、親から「作家になりなさい」と言われたことは全くありませんでした。第一、子どものころも、親から「勉強しなさい」と言われたことすらありませんでしたから。文学ということでいえば、むしろ大学やフランスに留学していたときに素晴らしい師に出会ったことが大きいでしょうね。

留守の家に上がり込み、野菜や魚を置いていく隣人達

ただ、独特の風土を持つ大分の田舎で生まれ育ったことと作家活動とは、切り離しては考えられないと思います。僕が育ったのは海辺の小さな集落。何も無い田舎の漁師町ですが、その分、都会よりも人間関係がとても濃くて……。

例えば、僕達が留守中、野菜や釣れた魚を持ってきてくれた人は、鍵のかかっていない家に勝手に上がり込み、それを冷蔵庫に入れたり、流し台の水に漬けておいてくれたりする。僕達は家に帰ってきてそれを発見し、「これは誰が持ってきてくれたんかいね」といろんな人の顔を思い浮かべるわけです。僕などは、みんながそうしてくれるので、いったい誰が持ってきてくれたのか分からない。でもおふくろなどは、いろんな人達との会話の断片をつなぎ合わせて「ああ、あの人からだ」とピンとくるんです。すごいですよね。

東京大学時代の恩師の一人が、僕に会うたびに愛情を込めてこう言っていました。「君は何も知らないなあ」と。でも、「君はこの大学のスタンダードから限りなく離れていて、そこに大きな差があるからこそ、おもしろいものが生まれる可能性があるんだよ」とも言ってくださった。つまり、都会の標準から離れているほど、ぶつかったときのエネルギーが大きくなる、と。

リアス式海岸の、海と山が入り組んだ独特の風景を持つあの土地で生まれ育ち、様々な出来事や人に触れてきたことが今の僕の強みになっていると思います。

僕の作品にはやや土俗的というか、前近代的というか、非合理的な思考をする人物達が出てきますが、そうした細部は両親や兄、近所のおじさん、おばさんなど、リアルに知っている身近な人達から着想を得ています。地方にはまだまだ考え方にも行動様式にも、論理より情動に働きかけるような土着的なものが残っていますから、読者の方々は自分達の土地にある、そうした土着的なものを僕の作品に感じて親近性を見出してくださるのかもしれませんね。

(ライター 宇治有美子)

[日経DUAL2015年1月21日付の掲載記事を基に再構成]