小牧市教育委員会は2004年度から、11回にわたり小牧山城を調査している。14年度は、城の北側から北東側にかけての約200平方メートルを発掘。小牧山城の石垣が従来考えられていた2段ではなく、3段であったことがわかり、幾重にも石垣で囲まれた要塞という当時の姿が浮かび上がってきた。
2月14日に開いた現地説明会では県内外から歴史ファンなど約700人が詰めかけ、関心の高さをうかがわせた。静岡県から夫婦で訪れた男性(51)は「石垣は迫力があり、興味深かった」と語った。
今回、見つかった3段目の石垣はのり面の下半分が石垣で、上半分が土の「腰巻石垣」と呼ばれる形状とみられる。使われる石材もこれまで調査が進んでいた石垣部分と比べ、小牧山で採れない花崗(かこう)岩が多く含まれることがわかった。
発掘に携わった小牧市教育委員会の小野友記子主査は「日本の石垣の城の原点」と小牧山城の意義を語る。それまでの日本の城は、土によるものが多かったという。現在、日本の城は天守閣と石垣というイメージが強い。そのイメージのもととなる安土城の前に信長が築いた小牧山城の位置づけを、小野氏は「安土城を造るにあたってのホップ、ステップの段階」とたとえる。
実は信長が小牧山城を用いた期間は短い。1563年(永禄6年)に築城したが、67年には美濃の稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略し、拠点は小牧山から岐阜に移った。この期間の信長の動向を伝える資料は少なく、信長研究の上で小牧山城の調査結果への期待は高いという。
発掘調査以前は小牧山城は美濃攻略のための拠点とする砦と考えられていた。ところが調査により石垣を備えた本格的な城で、麓には城下町を持つ重要な拠点であることがだんだんとわかってきた。
小牧山城の調査は2015年度まで続く予定。今回、新たな石垣が出現したことを受け、「さらなる調査が必要になってくる可能性もある」(小牧市教育委員会)という。信長ゆかりの小牧山城に実際、足を運んでみれば、戦国時代の新たな歴史のロマンを体感できるかもしれない。
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小牧山は標高80メートル超の山で、現在は公園などが整備されている。山頂には小牧市歴史館が建つ。
(名古屋支社 文、写真 小林宏行)