追悼・丸田祐三九段 王座戦半世紀共に歩む

2015/2/18
日本将棋連盟元会長で九段の丸田祐三氏が2月17日、95歳で亡くなった。連盟理事を長年務め、囲碁・将棋王座戦(日本経済新聞社主催)の創設にも尽力した。王座戦が50期を迎えた2002年に丸田氏が本紙に寄稿した記事を紹介する。

王座戦半世紀 共に歩む/好勝負重ね囲碁・将棋とも50期迎える

 囲碁・将棋王座戦が五十期を迎えた。タイトル戦五番勝負は、将棋が羽生善治王座と佐藤康光棋聖との間で十八日から始まり、囲碁は十月から趙治勲王座と王銘琬九段の二人で争われるという。今年八十三歳になった私は半世紀前、王座戦設立にかかわり、昭和二十八年(一九五三年)、将棋の第一期の決勝戦を大山康晴十五世名人と戦った。今さらながら年月の早さに驚いている。

辞表を懐に交渉

第13期将棋王座戦で優勝した当時の筆者(1965年、大阪・天王寺)

 王座戦の企画は昭和二十六年(一九五一年)ごろに持ち上がった。当時夕刊はなく、囲碁・将棋欄も現在のように毎日掲載しているわけではなかった。私は将棋連盟の理事として、日本経済新聞の大軒順三編集局次長(後の社長)とひんぱんに打ち合わせをした。

 棋士の生活は苦しかったので、大軒さんが「優勝した棋士が一年間食べていけるだけの対局料を」と提案してくれたのはありがたかった。しかし、さまざまな要求も厳しく、非常に手ごわい交渉相手で、大軒さんとの交渉に私はいつも辞表を懐にして臨んだ。

 大軒さんには参謀役として加藤治郎八段(後に名誉九段)が付いていたようだ。王座戦のアイデアも、もともとは加藤さんから出たものだった。私と理事会で顔を合わせても知らん顔をしていたが、加藤さんは大軒さんとは同じ早大卒なので、相談に乗っていたのだろう。

 「王座戦」という名称を考えたのは花村元司八段(後に九段)。昭和二十七年に囲碁、将棋のトーナメント戦が始まった。ちょうど木村義雄名人から大山康晴名人に替わり、将棋界は、新しい時代を迎えていた。

大山流の粘りに敗れる

 翌年の大山さんとの決勝戦は東京・目白の「椿山荘」で戦った。初めて将棋のニュース映画を撮影するということで、照明が非常にまぶしかったのを覚えている。その照明が消えると、今度は瞬間、目の前が真っ暗になった。吉田内閣の官房長官や経済・産業界の関係者も観戦に来ていた。

 形勢は私に有利に展開したが、大山流の粘りでなかなか勝たせてくれない。あのジリジリした気持ちは今も覚えている。終盤で桂を打てば勝ちだったが、発見できず最後に逆転された。七時間の持ち時間を使い切り百七十手、午前二時四十二分まで頑張ったが敗れた。少し不利なときの大山さんは、本当に強かった。

 ある年、大山さんが一回戦で四段の若手に負けたことがあった。そのときは文化部長さんに呼び出され「大山さんに真剣に指すように言ってくれないか」と苦情を言われた。私は棋譜を見せ、大山さんが一分将棋で頑張ったことを説明して納得してもらった。その四段が木村名人の息子さんの義徳現九段だった。

8期と13期に優勝

 東京や神奈川などで行われる囲碁王座戦を観戦したりして、囲碁棋士との交際も広がった。坂田栄男二十三世本因坊には気遣いの細かな人物という印象がある。藤沢秀行名誉棋聖は私を同年配と思ったのか、気さくに付き合ってくれた。しかし実は私が六歳も年上と知ると、一転恐縮して謝った。「今までマルユウさんで通していたのですから、このままでいいですよね」と言うのだった。

 第一期囲碁優勝の橋本宇太郎九段とは、大山さんと三人で話したことがある。そのとき橋本さんは「今に日本一になる若手が関西棋院におる」と嬉(うれ)しそうだった。第七期優勝の橋本昌二九段のことだった。

 私は第八、第十三期と優勝したが、第十七期からは中原誠永世十段が連覇する時代に移った。半世紀前、大きな存在だった木村名人の後をどう受け継いでいくかが、私たちの課題だった。大山、中原、谷川、羽生と続いて将棋界は幸運だったように思う。話してみると、羽生くんも傑出していることが分かる。ただ苦しい時代を経験していないので、それだけが心配ではあるが。

 二日制のタイトル戦が主流の時代に、王座戦は一日指し切り制で始まった。それが初手から棋士の緊張感を生み、密度の濃い好勝負が半世紀続いた一因だろう。私は六年前に引退したが、後輩たちの熱戦を目の当たりにすると、心は今も盤上をさまよっている。(まるた・ゆうぞう=将棋九段)

[2002年9月13日付日本経済新聞朝刊文化面掲載=肩書は当時]

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