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なぜ銭湯に富士山? 原動力は意外な広告商法 編集委員 小林明

2015/2/20

 広々とした銭湯で手足を思う存分に伸ばして入浴するのは実に気持ちがいいものだ。気分が爽快になるし、蓄積した疲れも一気に吹き飛んでしまう。そんな至福の時間に欠かせないのが背景画に描かれた雄大な富士山。眺めているだけで気分転換もでき、元気がよみがえってくる。

 だが、そもそもどうして富士山が銭湯に描かれるようになったのだろうか?

 疑問に思って取材を進めると、意外な秘話やユニークな広告商法が次々に浮かび上がってきた。今回はそんな興味深い銭湯の背景画の謎に迫ってみよう。

■人気が高い富士山の“御三家”とは?

1位――「西伊豆」からの富士山(東京・杉並「和泉湯」 2010年 町田忍さん提供)

 まず銭湯の背景画にはどんな種類があり、どんな絵柄に人気があるのだろうか?

 取材したのは社団法人、日本銭湯文化協会(東京)理事の町田忍さん。銭湯をはじめとした日本の庶民文化の研究家として知られている。町田さんによると、特に人気が高い富士山の背景画の“御三家”が「西伊豆」「三保の松原」「富士五湖」だという。

 1位の「西伊豆」は黒い岩場に雄大な海が広がり、2位の「三保の松原」は湾曲した砂浜に松林が立ち並ぶ構図。3位の「富士五湖」は本栖湖、河口湖、山中湖などから見た富士山の風景だ。「理想の富士山は八合目から上がスッポリと雪をかぶった状態。12月から2月くらいの季節の富士山が最適」だとか。夏のよりも冬の富士山の方がやはり人気が高いらしい。

2位――「三保の松原」からの富士山(東京都内展示会 1987年 町田忍さん提供)
3位――「富士五湖」からの富士山(東京・杉並「玉の湯」 2002年 町田忍さん提供)

■夏よりも冬の富士山、立山・マッターホルンも

 このほか「白糸の滝」を描いた富士山もあるが、それほど数は多くない。ほとんどの絵柄は“御三家”のどれかに属するそうだ。

 最近、急速に人気が上昇しているのが朝日を浴びて神々しく輝く「黄金富士」と「赤富士」。黄や赤の鮮やかな色彩で描かれた富士山は、よく見慣れた「青い富士山」とは一味変わった不思議な魅力を放つ。

 富士山以外では勝浦(千葉県)や駒ケ岳(北海道)、広瀬川(宮城県)、兼六園(石川県)、最上川(山形県)、阿蘇山(熊本県)、立山(富山県)、野尻湖(長野県)、志摩(三重県)、瀬戸内海なども人気。これらは地元にゆかりのある場所や銭湯のオーナーの故郷の風景が多い。

 マッターホルン(スイス・イタリア)、レマン湖(スイス・フランス)、ベスビオ火山(イタリア)など欧州の観光名所もある。いずれもガイドブックでよく紹介されている景勝の地。湯船で心身を休めながら、つかの間の旅行気分が味わえるという趣向だ。

「黄金富士」(東京・世田谷「給田湯」 2014年 町田忍さん提供)
「赤富士」(東京・墨田「荒井湯」 2009年 町田忍さん提供)

番外編――「立山」(東京・練馬「たつの湯」 2004年 町田忍さん提供)
番外編――「マッターホルン」(東京・世田谷「富寿湯」 1999年 町田忍さん提供)

■発祥は大正元年の「キカイ湯」、東京周辺に普及

「キカイ湯跡」のプレート(東京都千代田区猿楽町2―7―1、町田忍さん提供)

 では、銭湯の富士山はいつごろから、どんな理由で描かれるようになったのだろうか?

 「実は銭湯の富士山の発祥は大正期の東京なんです」。町田さんはこう解説する。

 銭湯に初めて富士山が描かれたのは大正元年(1912年)のこと。東京都千代田区猿楽町にあった銭湯「キカイ湯」(風呂釜に汽船ボイラーを使用したのが名の由来)の経営者が施設を増築する際、「子どもたちに喜んで湯船に入ってほしい」と願い、浴室の壁にペンキ絵を描くことを発案。依頼した静岡県出身の洋画家、川越広四郎が生まれ故郷の富士山を描いたのがきっかけになったという。

 富士山は日本の象徴であり、信仰の対象でもある。姿形が美しいし、末広がりで縁起もいい。これが大きな評判を呼び、周囲の銭湯に急速に広がった。こうして富士山の背景画が銭湯に普及したというわけ。「だから、富士山の背景画は東京周辺に多い」(町田さん)。特に富士山が見える地域の銭湯ほど富士山が描かれる傾向があり、それ以外の地域ではあまり見かけないそうだ。

 ちなみに「キカイ湯」は1971年に廃業しており、現在ではその跡地(東京都千代田区猿楽町2―7―1)に「富士山の背景画の発祥地」であることを示すステンレス製プレートが残されている。

■広告代理店がサービスとして専属絵師に描かせた

 富士山の背景画が銭湯に広がるのに伴い、ユニークな広告ビジネスも誕生した。

 浴場にPR看板を張る広告代理店が登場し、クライアントから集めた広告料を使って無料で絵師(広告代理店所属)に背景画を描かせるようになったのだ。

 世の中にテレビやラジオがまだ普及していない時代。庶民の社交場である銭湯は当時、広告媒体として宣伝効果が絶大だった。常連客もサービスで毎年描き替えられる背景画を楽しみにするようになり、銭湯に欠かせない大衆文化として東京を中心に根付いていった。

■プロ絵師はたった2人、背景画は“風前のともしび”に

 銭湯が全盛期を迎えた1960年代。東京都内にはそんな広告代理店が約20社あり、専属の銭湯絵師も数十人程度は働いていたとされる。だがその後、内風呂の普及などに伴い銭湯数の大幅な減少が続き、現在、都内で働く現役のプロ絵師は丸山清人(79)さんと中島盛夫(69)さんの2人だけ。

 後継者も少なく、今や富士山の背景画は“風前のともしび”になっている。

■描いてはいけない「3つのタブー」とは?

 背景画に描けない「3つのタブー」があるのをご存じだろうか?

 町田さんによると、「猿」「夕日」「紅葉」を描くと縁起がよくないという。「猿」は「客が去る」、「夕日」は「家業が沈む」、「紅葉」は「葉が赤くなり、落ちる」という意味につながり、売り上げの減少を招くと考えられるからだ。銭湯も縁起の悪い題材はできるだけ避け、商売繁盛を祈念したいところ。だから日本人なら誰でも好きな富士山が安定した人気を集め、背景画の定番としての地位を固めたというわけ。

■「空」3年、「松」10年、「富士山」一生……

 ここで絵師の心得についても簡単に説明しておこう。

銭湯絵師の中島盛夫さん(69)

 背景画で使うのは原則として青、赤、黄、白の4色のペンキ。これを混ぜ合わせて必要な色を作り、ペンキが乾ききらないうちに仕上げる。ペンキが垂れてもいいように絵は上から下に向かって手早く描くのが基本。また「通常、男湯か女湯のどちらかにしか富士山は描かない」(町田さん)という。

 「空3年、松10年、富士山一生」――。これも絵師の間では有名な格言。空をマスターするのに3年、松をマスターするのに10年は必要。富士山は一生かけて極めることを意味する。どこまでも長くて険しい「修行の道」なのだ。

■ぶっつけ本番、3時間の真剣勝負

(1)背景画に沿って足場を組む (東京・板橋「みやこ湯」)
(2)頂上から大胆に塗りつぶす(同)

(3)裾野や雲を描き直す(同)
(4)滝や松林を消し、雲海や山並みに(同)

(5)手前に茶畑や松林が出現(同)
(6)頂上付近に陰影を付ける(同)

(7)松林にも陰影を付けると完成(同)
(8)構図や色彩が異なる富士山に変身(同)

 富士山の背景画は実際にどうやって描くのだろうか?

 現役の銭湯絵師、中島盛夫さんの仕事現場を取材したのでその様子を再現してみよう。

 1月下旬の休業日。場所は東京都板橋区熊野町の「みやこ湯」。富士山を描いた男湯の製作工程(午前中)を見学させてもらった。

 作業は朝9時前からスタート。まず壁面に沿って足場を組み、ペンキ、ブラシ、ローラーなど道具類を用意。準備ができたら、壁面から離れてタバコをふかしながら静かに着想を練る。

 元の背景画は手前に松林や滝が迫り、遠方に富士山が見えるダイナミックな構図。下塗りはまったくせず、ぶっつけ本番で元の背景画の上に直接新たな絵を描く。やり直しがきかない真剣勝負だ。

 やがて、中島さんはブラシを手に取り、黄色のペンキで富士山の頂上付近を勢いよく塗り始めた。筆さばきには少しも迷いがない。麓の部分は紫色を使う。元の富士山とはかなり異なる色調だ。「一体、どんな絵に仕上がるのだろうか」とワクワクする。

 続いて麓の雲海やかすみ、山の稜線(りょうせん)を描き、左側の滝は茶畑のような風景に手際よく塗り替える。その直後にしばらく休憩。たばこをくゆらせながら構図を再確認し、最後の仕上げ作業に入る。富士山の頂上付近の尾根や雪面、松の枝などに細かな陰影を付けるとリアルさが一気に増した。画面がみるみる引き締まっていく。

 正午過ぎ。ついに背景画の全体が完成。構図や色彩がまったく異なる新しい富士山が姿を見せた。製作時間は3時間強だった。

■終わりない探究、世界に誇る大衆芸術

 「構図や色は描く直前にひらめくもの。それまでの背景画よりも、あえて違った印象に見えるように心がけた」と中島さん。背景画はその場の空気感や心境が大きく影響する。まったく同じ絵は二度と描けないそうだ。

 「富士山は昔から多くの画家たちを魅了してきた深遠なテーマ。中島さんのような名人でも、いまだに様々な角度から富士山を観察し続け、試行錯誤を繰り返している。探究に終わりはありません」(町田さん)

 描き替えるまでの短い命とはいえ、極めようとすると実に奥が深い。身近な銭湯に描かれた富士山は、日本が世界に誇るべき偉大な大衆芸術なのだ。

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