日本の缶ビール、苦闘の戦国史けいざい半世紀(3)

毎年、多くの商品が登場する半面、ひっそりと姿を消すものもあります。一方、変化の激しい世の中で半世紀も支持を集め、存在感を発揮している商品やサービスもあります。新コラム「けいざい半世紀」では“長寿”商品・サービスを題材に、成長や生き残りの秘訣を探ります。

缶ビールの「プッシュ」と鳴る開栓時の音に、心安らぐビジネスマンはきっと少なくないだろう。1日の仕事終了を知らせる合図のようなもので、自然と首筋のこわばりも緩む。暑い真夏ばかりではなく、空気が乾燥しがちな冬でもビールはうまい。持ち運びが楽で開けやすいプルトップ型缶ビールが発売されたのが、ちょうど50年前の1965年(昭和40年)3月。缶切りで開けるタイプは、その7年前に登場している。意外なことに直ちに普及したわけではない。缶ビールを巡る約50年は、そのままメーカー各社が演じた苦闘の戦国史でもある。

朝日麦酒の山本為三郎社長。関西財界の重鎮の一方、民芸運動など芸術・文化活動を支援するなどスケールの大きな経営者だった

缶ビール歴史を語るには、ひとりの大物経営者が欠かせない。朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)の山本為三郎社長(1893~1966年)だ。早くから関西財界で活動した山本氏は、20歳代半ばで「日本製壜(びん)」の専務に就任するなど、ビール業界でも容器に一家言ある「壜屋」として知られていた。米国のアメリカン・キャン社が初めて缶ビールを商品化したのは35年(昭和10年)。大日本麦酒時代で常務だった山本氏は、時をおかず東洋製缶の高碕達之助専務(当時、後に通産相)に共同開発をもちかけ、尼崎工場で実験を試みたという。

戦後もいち早く東洋製缶との研究を再開。アサヒグループホールディングス資料室の鈴木芳彰嘱託は「49年に社内の通称『円卓会議』で山本社長が缶ビール開発を決めている」と言う。ビール業界もまだ敗戦の打撃から立ち直れていない時期だ。57年には阪大の発酵工学教室にも協力を求めた。同社が缶切りで三角形の穴を2つ開けて飲むタイプを発売したのは翌58年。容量350ミリリットルで価格は75円だった。続いて翌59年に日本麦酒(64年からサッポロビール、現サッポロホールディングス)、60年には業界首位の麒麟麦酒(現キリン)も発売した。

1958年に発売された朝日麦酒の缶ビール。缶切りで開けて飲むタイプだ。

高度成長期を代表する飲みものを1つだけ選ぶとすれば、それはビールだろう。総製造量は55年の約40万キロリットルから64年の199万キロリットルと約5倍に伸びた。同期間のアルコール飲料製造量の推移は清酒約2.5倍、焼酎約0.8倍、ウイスキー約1.3倍で、ビールが突出している。全酒類中のシェアでも55年度の清酒36.9%、ビール29.3%から59年度には逆転、64年にはビール53.9%、清酒34.6%と差が開いた。市中の飲食店で手ごろな価格で注文できる上、高度成長期「三種の神器」の一つである冷蔵庫の普及で家庭でも冷やして飲める。市場の急拡大を受けて57年には焼酎の宝酒造(後に撤退)が、63年にはサントリーが進出している。

59年に発売したサッポロビールの缶ビール。トレードマークの「S」の字が上下同じように見える美しいデザインだ

これほど消費の拡大が続いている時になぜ新製品の缶ビールだったのだろう。スチール缶が普及すれば鉄の需要も伸びる。そうした製缶業界や鉄鋼業界の思惑もあったのかもしれない。加えてレジャー先に持って行ける、手軽に冷やせるなどの利点は確かにあった。しかし、それでも瓶ビールになじんだ消費者相手に勝算はあったのか。

実は日本麦酒(サッポロ)でも缶ビール商品化は発売寸前まで進んでいた。サッポロビールの端田晶・エビスビール記念館館長は「最後に経営陣から慎重論が続出した。先々の需要の見通しが立たないことが大きな理由だった」と説明する。缶ビール開発を主導してきた朝日麦酒の山本社長も「東京・大阪の発表披露会では『これが瓶にとって代わるとは思えない。ただ、こういうものがあってもよい、売れる売れないは別としてこの世に送ることにしました』と慎重な挨拶(あいさつ)をしていた」(鈴木氏)。

麒麟麦酒が1965年に発売したプルトップ型。拡大するビール市場でシェアを伸ばしていった

缶ビール開発の背景には「『打倒キリン』の意識があったのだろう」と端田館長は指摘する。急成長するビール市場にあって、さらにシェアを伸ばし続けていたのが麒麟麦酒だった。49年には約25%にすぎなかったが54年には約37.1%を獲得して首位に立った。10年後の64年は約46.2%、66年には市場の5割を占め67年度には米アンハイザー・ブッシュに次ぐ世界第2位のビール会社になり、72年には国内シェア6割に達した。戦前から食堂などの小規模料飲店や各家庭にまで届ける酒販店への流通網を開拓しており、戦後も新工場建設などでいち早く生産拡大をはかり都市部を重視して供給する経営戦略が右肩上がりの成長を支えていた。「各社が高級ビールや生ビール新製品、2リットル級の特大瓶ビール、輸入ビール販売など新市場開拓に色々な『新手』を試みた時期だった」(端田氏)

1965年の朝日のプルトップ型。他社に先駆けてアルミ缶も投入した

山本社長の予想が的中したのか(?)缶ビールの需要は伸びなかった。朝日は発売翌年の59年に全体の約5%まで伸ばしたが翌年からは減少し、全体の3%程度で推移。キリンCSV本部アーカイブ室の関根麻里さんは「缶詰ビール発売年の出荷量は約41万キロリットル。缶ビール割合は1%だった」と言う。「発売後しばらくは全体の1~2%で伸び悩んだ」(関根さん)。いわばメーカー全社が苦戦していたわけだ。

一番の欠点は缶を切る面倒さだっただろう。しかもスチール缶は材質が硬いため開けにくく、タイミング良く切り口を入れないと中身のビールがこぼれてしまう。衣服をぬらしてしまうといった苦情が多かった。東洋製缶などが上蓋を軟らかいアルミ製に変え、さらに缶切り不要のプルトップ缶を開発した。サッポロ、麒麟、朝日3社が65年3月下旬に一斉にプルトップ缶を発売した。それでも市場は伸び悩んだ。麒麟では「70年代に入っても全体の1割を切っていた」(関根さん)。ビール容器の革新は進み、より軽く、冷やしやすく、空き缶の処理も簡単なアルミ缶を朝日が発売したのは71年だ。

「缶ビール普及の最初きっかけは自動販売機だった」と端田館長。63年に久保田鉄工(現・クボタ)が開発し各メーカーも参入。70年代に入ってから国内各地での自販機設置が本格化した。71年(昭和46年)~73年の第1次ピークに約4万8000台、77~79年の第2次ピークには約7万5000台が出荷されたという。いちど設置すれば一定の販売が見込める。

「瓶」復権の兆し?コンビニに並んだヒット商品の「グランドキリン」

キリンの関根さんは「80年代末からの酒類小売販売の規制緩和や大規模小売店舗法の改正が缶ビールの需要を伸ばしていった」と分析する。具体的にはコンビニエンスストアやスーパーマーケットで消費者が1本から気軽に買えるようになったためだ。

社会の核家族化も進んだ。その一方で各地の酒販店は後継者難、人手不足に悩まされるようになった。一軒家の勝手口に、酒販店の青年が数ダースの瓶ビールを届ける風景は都市部から見られなくなっていった。関根さんは「日本人のライフスタイルの変化が缶ビールを選ばせるようになったといえる」とみている。キリンで缶ビールの比率が5割を超えたのは約289万キロリットルを出荷した98年。昨年は約75%が缶ビールだった。アサヒの鈴木氏は「今後も新しい素材を使った缶ビールが登場するかもしれない」と予想する。

その一方、あえて瓶に回帰することで洗練したムードを醸し出させたビールが関心を呼んでいる。キリンが2012年に発売した「グランドキリン」だ。麦芽の量が多く新たな製法で香りや苦みを利かせた高級ビールをあえて瓶入りとした。黒を基調として重厚感を出し栓抜きがなくても開栓できるように開発した。発売後1カ月で年間目標の6割を達成したヒット商品だ。20代の若年層に多く飲まれているという。ある大学生は「缶ビールとあまり変わらない価格で高級感を味わえるのがいい」と話す。エビスビール記念館の端田館長も「缶の利便性を犠牲にしてもビールを大切にしようという姿勢がうかがわれる」と評価する。高度成長期にあれだけ急拡大を続けた国内ビール市場も成熟化して久しい。次のけん引役となるのは新素材の缶ビールか、復権した瓶ビールか。(電子整理部 松本治人)