英語でゴブリン・シャーク(悪魔のサメ)と呼ばれるサメがいる。明治時代の先駆的な動物学者、箕作佳吉(みつくり・かきち)にちなんで和名をミツクリザメという。英名で悪魔と呼ばれる理由は、鋭い歯の並ぶ歯茎が突き出て、眼も落ち込んだ不気味で醜悪な顔付きからの連想だろう。
生きて入手できるチャンスは少ない
ミツクリザメは深海性のサメで、ポルトガル沖、南アフリカ東岸、カリフォルニア沖など世界各地から報告されているが、相模湾や駿河湾をはじめとする日本沿岸からの記録が最も多い。主に水深200~400メートルで採集され、冬場は100メートルより浅いところにも来る。日本近海でとれるのは1~2メートルサイズの小ぶりの個体が多いが、成長すると5メートルになるという。
世界的にも生きて入手できるチャンスが非常に少ない。今から20年ほど前、英国放送協会(BBC)から東海大学海洋科学博物館に、ミツクリザメの映像を貸してほしいとの連絡が入った。サメの特集番組をつくるのに、ミツクリザメの映像だけが手に入らないというのだ。
東海大学海洋科学博物館はBBCから連絡があった少し前の1992年3月、駿河湾の静岡市蒲原沖で刺し網に掛かった1メートルほどのミツクリザメを飼育したことがあった。このときは3日足らずの飼育に終わり、地元テレビ局による取材があったが、映像も残っておらず、残念ながらBBCの要望には応えられなかった。
東海大学で飼ったミツクリザメは正常な状態で泳いでいるときには、上下の顎は引っ込んで、つまり体内に収まっていて、一般的なサメと同じ外見だった。あの両顎がむき出しになるのは、死んで筋肉がゆるんだ後にああなるのだろうと考えられた。
葛西臨海水族園は深海生物の飼育に意欲的に取り組み、ミツクリザメの飼育にも挑戦してきた。こちらの水族館には実験飼育用の水量3立方メートルの加圧水槽があって、2007年に東京湾外湾の水深250メートルで刺し網にかかった1.2メートルのミツクリザメを14日間飼育できている。これが当時の飼育世界記録となった。
その後、13年に放送されたダイオウイカ以来の深海生物ブームの影響もあってか、このところミツクリザメの捕獲ニュースが多くなった。関東・東海地区のいくつかの水族館が飼育に挑戦したが、どれもあまり状態がよくなくてほとんど1週間しか生きなかった。
サメ類で最大の長さの両顎 突出速度も最速
しかし、昨年11月、葛西臨海水族園に入った個体はまれに見る状態の良さで、すぐに加圧水槽よりも大きな30立方メートルの深海生物展示水槽に収容された。この水槽は内部に岩組などがあったが、ミツクリザメは上手に岩組や壁をよけて泳いでいた。しなやかな尾ビレを大きく波打たせて静かに前進し、壁が近付くと速度を落として体を横に傾けて方向転換していた。餌を食べることはなかったが、順調に飼育が続き2週間を超えて16日間の世界新記録となった。飼育期間中は両顎を体内に収めたままで、あの悪魔のイメージはなかった。
一方で、深海ザメの生態を長年追っていたNHKは東京湾外湾にすむミツクリザメの姿を撮影しようとした意欲的な番組を08年に放映した。この放送で、刺し網に掛かった個体を撮影しようとしたスタッフの腕に突然ミツクリザメがかみつくアクシデントがあり、顎を突出させた貴重な映像が放映された。さらに、11年にはミツクリザメが顎を突出させて魚を捕食する映像を撮ることに成功している。
ミツクリザメの捕食シーンはNHKが撮影した5回だけで、サメ研究者である北海道大学の仲谷先生はこの貴重な映像を使って摂餌行動を分析した。それによると、ミツクリザメが両顎を突出させる長さは体長の10%ほどで、サメ類のうちでは最大、そして突出速度も最速だという。悪魔の容貌はエサの乏しい深海で餌を捕らえる特有の戦略だというわけだ。
ミツクリザメ少女は覗(のぞ)く喉の奥 建一郎
(葛西臨海水族園前園長 西 源二郎)
※「生きものがたり」では日本経済新聞土曜夕刊の連載「野のしらべ」(社会面)と連動し、様々な生きものの四季折々の表情や人の暮らしとのかかわりを紹介します。