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映画回顧2014 “炭鉱のカナリア”の監督たち 危うい時代の空気を察知

2014/12/26

 映画作家もカート・ヴォネガットが言う「炭鉱のカナリア」なのだと思う。坑道で危険なガスを感知するカナリアのように、危うい時代の空気を敏感に察知し、警報を発する。

 76歳の大林宣彦、78歳の佐々木昭一郎。2人の老監督が、絶対にこの人でなければ撮れない独自のスタイルで見つめたのは、自らの原点である戦争体験だった。どちらも決して声高な映画ではない。それなのに今の時代への危機感がひしひしと伝わってくる。

大林宣彦監督「野のなななのか」(C)2014 芦別映画製作委員会/PSC

 北海道・芦別を舞台にした大林宣彦「野のなななのか」は、3.11後の現代と1945年の敗戦の夏とが自在に交錯する。92歳で逝った元病院長の葬儀に集まった孫たちと謎の女。彼らは、死者がこの世にとどまる「なななのか」(四十九日)までの間に、故人の人生を垣間見る。その人生を決定づけたのは8月15日が過ぎてもソ連軍との戦闘が続いた樺太での体験だった……。

 地方を舞台に、震災と戦争、現在と過去を往還し、「敗戦」の意味を庶民の目線でとらえ直す。そんな大林の方法は「この空の花/長岡花火物語」(2012年)から一貫するが、この作品ではそのスタイルがより鮮明に、力強く表れている。細かいショットを息せくように連ねて、見る者の想像をかきたる技法の面でも。死者と生者が大胆に交感する物語の面でも。50年代から自主製作映画を撮ってきたこの人の集大成ともいえる作品だ。

 その底には、戦争体験の風化が進む現代の日本人に対する危機意識がある。敗戦を知る世代としてこれを伝えねばならないという切迫感が、見る者の心を揺さぶる。

佐々木昭一郎監督「ミンヨン 倍音の法則」(C) 2014 SIGLO/SASAKI FILMS

 佐々木昭一郎「ミンヨン 倍音の法則」は、NHKディレクターとして「四季・ユートピアノ」(80年)など世界的評価を受けたテレビドラマ作品をものしてきた映像作家が、自身の戦争体験をありのままに描きながら、豊かなイメージをたたえた独自の詩的世界に昇華させた作品だ。

 ミンヨンという若い韓国人女性が、モーツァルトの調べに導かれ日本を旅する。祖母の親友だったという佐々木すえ子という女性の面影を追って。様々な出会いを経て、ミンヨンはいつしか戦時下のすえ子の過酷な人生を生き始める……。

 すえ子は佐々木昭一郎の母親であり、父親が軍部批判をして新聞社を解雇され、特高に追われ、毒殺されるという物語も実話だという。職業俳優ではない実生活者を起用し、現実と虚構を織り交ぜ、そこに自身の体験を反映させる手法は、一連の佐々木ドラマに連なる。ただ幼少期の決定的な体験をここまで赤裸々に描いたことはなかった。

 20年の沈黙を破っての初の映画作品だが、自身の方法論を突き詰めた佐々木の到達点といえる。「夢の中でこそ現実に触ることができる」というミンヨンのセリフは佐々木の信念でもある。ミンヨンが明るく口ずさむ歌には、現代の世界に満ちる悲しみを振り払うような力があり、そこに佐々木の祈りを感じた。

舩橋淳監督「フタバから遠く離れて 第二部」(C)ドキュメンタリージャパン/ビックリバーフィルムズ

 戦争を知る世代の2人がファンタジーという形式で過去と現在を結びつけたのに対し、40歳の舩橋淳はドキュメンタリーによって、時代の危うさに真正面から向き合った。「フタバから遠く離れて 第二部」は、3.11後に数多く作られた震災関連のドキュメンタリーの中でも出色の1本だ。

 原発事故のために全町民が避難を余儀なくされた福島県双葉町の物語である。第一部では埼玉県加須市に町役場ごと町民が移ってきた旧騎西高校避難所を定点観測した。第二部は同避難所が閉鎖されるまでを追うが、それはコミュニティーの崩壊過程を時々刻々と記録することにほかならなかった。

 福島県内の仮設住宅と埼玉県の避難所。仕事を求める若者と行き場のない高齢者。線引きによる補償金の多寡。町民の間に生じた様々な温度差が、地域社会の亀裂を広げる。時間の経過が希望を奪う。土地を追われた人々の生々しい現実は、海の向こうの遠くの出来事ではない。いままさにわれわれが暮らすこの国で起こっている。いつ誰の身に降りかかっても不思議ではない。現代の日本がはらむ危うさだ。

 海外の映画祭で受賞が相次いだ日本作品にも、時代の危うさは濃厚に映っていた。とりわけ30代、20代の中堅・若手の作品に力があった。

呉美保監督「そこのみにて光輝く」

 モントリオール世界映画祭で監督賞を受けた呉美保「そこのみにて光輝く」は、地方都市の行き場のない若者たちのもがきを描いた。登場人物たちの苦境は、過去の過ちや貧困によってもたらされたものだが、そこから容易に抜け出せない重苦しい閉塞感は、いま我々が生きているこの国に確実に広がっている。地域経済は疲弊し、地域社会は壊れた。若者に希望はなく、家庭は危機にある。

 呉はそんなふうに大上段に振りかぶることはせず、一人ひとりの人物を丁寧に描くことに徹している。そうすることで人々を取り巻く地方都市という場所の閉塞感を浮かび上がらせる。原作は25年前に書かれた佐藤泰志の小説で、映画はこれを現代に置き換えた。にもかかわらず、そこに生々しい空気を感じさせるのは、この映画が間違いなく現代社会のリアリズムに根ざしているからだ。

熊切和嘉監督「私の男」

 モスクワ国際映画祭でグランプリを射止めた熊切和嘉「私の男」は、父と娘の禁断の愛を描いた作品。スキャンダラスな題材だが、映画が迫るのは浅野忠信演じる父と二階堂ふみ演じる娘の壮絶な孤独だ。2人の寄る辺なき魂が北海道の寒々しい光景の中でくっきりと浮かび上がる。

 極限状況でのリアリズムは「鬼畜大宴会」(97年)、「アンテナ」(03年)など熊切作品に脈々と流れているものだが、その根幹にある人間の孤独をここまで純粋な形で映像化したことに拍手を送りたい。禁断の愛に踏み込んでいく2人も、まぎれもなく我々と地続きの世界に生きる現代人なのだ。

 熊切、呉は1970年代生まれ。国際映画祭では塚本晋也、三池崇史、諏訪敦彦、園子温、是枝裕和、青山真治、河瀬直美ら60年代生まれの映画作家たちの陰に隠れていたが、作品を重ねるごとに表現を磨き、作家性を確立した。貧困や孤独をリアルに描きながら、かすかな希望をとらえようとする点も両作品、両監督の共通点だ。両作品で撮影を務めた近藤龍人の力も大きい。

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