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世界的人気店「NOBU」苦労の先にあったもの

2015/1/8

日経DUAL

 今や、5大陸にまたがる世界的なレストラン・グループのオーナーシェフとして活躍しているNOBUこと、松久信幸さん。14歳のとき、お兄さんに初めて連れて行かれたすし店で料理の世界に魅了され、すし職人になることを決意したのが始まりでした。東京の店で修業した後、海外へ渡り、ペルー、アルゼンチン、アメリカと拠点を変えながら、和食の技術を基本に南米や欧米のエッセンスを取り入れた独自のスタイルを確立。アメリカのビバリーヒルズに出店した「Matsuhisa」でハリウッドスター達を魅了し、1994年に「NOBU New York City」を開店して以来、俳優ロバート・デ・ニーロさんはビジネスパートナーに。世界を飛び回る松久さんと、愛娘の純子さんに、日経DUAL編集長がインタビューしました。

――世界に35店舗、年間200万人以上が来店する世界的な人気店のオーナーシェフでいらっしゃいますが、若いときから海外に渡り、行く先々でチャレンジや苦労をされてきたとお聞きしました。

松久信幸さん(以下、松久): そうですね。自分としては「このような生き方をしよう」と思って進んできたわけではないんですが、子育ても仕事も、何か苦しいことがあっても逃げるわけにはいかないという思いでやってきました。

 数々の失敗もしたけど、失敗から学んだこともたくさんある。もし、失敗をして逃げていたら、今の僕は絶対になかったと思います。現実から逃げなかったことで、今の僕とNOBUがあると思っているんです。

NOBUこと松久信幸さんと、娘の純子さん(写真:小野さやか)
 当初は苦労続きだった。10代から東京のすし店で修業を重ね、お客さんからの誘いで、結婚したての妻と二人でペルーに渡って自らの店を開く。順調に見えたのもつかの間、仕事のパートナーとけんか別れをしてしまい、妻と1歳の長女(純子さん)を連れてアルゼンチンへ渡る。現地のすし店で働いているときに、妻が次女を妊娠していることが判明。このまま続けていくのは厳しいと考え、日本への帰国を決めた。

松久: 南米から日本に逃げるように帰ってきて、お金も無く、友達もおらず、唯一頼れる知り合いのところに寝泊まりさせてもらっていました。子どもは知人の家でも「ミルクが欲しい」と無邪気に言うんです。当時の日本ではミルクはかなり高く、十分なお金が無いなかで肩身が狭い思いをして、非常に心苦しかったですね。

 その後、アラスカで日本料理店を出さないかという誘いがあり、「頼むから、もう一度オレにチャンスをくれ」と妻に頼み込んで、家族でアラスカへ渡る。ところが、そこで「もう自分の人生を終わりにしよう」と思うほどのどん底を味わうことに…。長女・純子が3歳、次女が1歳のときだった。
「道を間違えそうになったときに引き戻してくれるのは、夫婦の信頼関係だと思います」

松久: 今度こそという思いで借金をして、アラスカへ渡りました。僕もノコギリや金づちを持って、半年間くらい工事を手伝って。そうして無事、日本料理店をオープンさせたんです。お客さんの入りも良く、ひと安心でした。

 ところが、オープンから50日、休業日に不意の出火によって火事が起こってしまったのです。せっかくのお店が…何もかも焼失してしまったんです。

 「ああ、僕の人生、これで終わりだ」と思いました。

 体は動かず、何も食べられず、水さえも飲んだらすぐ吐いてしまうという極限の精神状態。白いごはんが目の前にあっても、食べずに手で握り潰してしまう。「自分の人生、ギブアップだ」と、どうやって死のうかということばかり考えていました。

■絶望の縁で励みになった妻と子ども達の存在

 そんなときに支えてくれたのが、妻と子ども達でした。店が焼失してしまった直後は家族がいることにすら頭が回らないほどの状態だったのですが、そのうち、子ども達の存在に気づき始めました。僕がずっと家にいることが珍しくてうれしいようで、キャッキャと喜び、足元にしがみ付いてくる。そこで、ハっと我に返りました。「この子達のために、家族のために、よし、もう一度やってみよう」と。

 当時の苦しみは、40年近く経った今でもよく覚えています。「絶対にあの時代には戻りたくない」という気持ちで一生懸命走ってきた気がします。僕、内心はすごく怖がりなんですよ。あの時代に戻らないようにするために、無我夢中で走り続ける。だから今、いいかげんな気持ちで仕事をしている人を見るとカチンときてしまって、「お前ら、与えられたチャンスなんだから、もっと一生懸命生きろよ」と思わず言ってしまいます。

――松久さんが、そういうつらい精神状態のとき、奥様もさぞかしご心配だったかと思います。

松久: 女房の気持ちは分からないですけど、いつも僕を信じてくれていたのは確かです。「この人だったら、どこへついていったとしても、きっと何かをしてくれる」と思ってくれていたみたいです。

 結婚をするということは、お互いを信じ合うことだと思うんです。パーフェクトな人間なんていませんから、結婚後も色々な問題が起こります。でも、常に信じてくれる人がそばにいると、道を誤りそうになっても、元に引き戻ることができる。それが、夫婦なんじゃないかなと思います。

 女房は、純粋でおおらかで、人を疑うということをしない人。僕がチャレンジするといっても、ただ黙って信じてくれている。男としては、信じられたりすると、あまり無茶はできないものです。とんでもない方向に行きたいと思っても、行けなくなります。ということは、実は僕は、女房の手のひらの上で転がされているのかもしれませんね。

松久純子さん(以下、純子): 私は小さいときの海外での記憶はあまりありません。けれど、自分自身が子ども(4歳の娘)を持ってみると、当時の母が小さな子どもを抱え、未知の海外、未知の世界へ飛び出す父に、よくぞついていったなと驚いてしまいますね。

 もし私が今、夫から「仕事はどうなるか分からないけど、一緒についてきてほしい」と言われたら、正直ちょっと考えてしまう(笑)。最近母に、「あのとき、よく行ったわね」と話したら、「夫と一緒にいたかったから。未知の世界かもしれないけど、世界は“空”で一つにつながっているから大丈夫。別に何の心配も無いわ」と言っていました。本当にすごい母です。

 知り合いの紹介で、アラスカからロサンゼルスに一家で渡り、オープンしたての日本料理店で働くようになる。ペルー時代に身に付けたスペイン語が役に立ち、スペイン語を話す常連客が増えていく。そして、自身の名前が付いた日本料理店「Matsuhisa」をビバリーヒルズにオープン。ペルーやアルゼンチンでの経験を生かして南米のエッセンスを和食に盛り込んだオリジナル料理が人気を呼び、「NOBU」の代表メニューの一つ、「ソフトシェルクラブロール」や「ギンダラの西京焼き」なども生まれた。

――ロサンゼルスでは、奥様も働いていらっしゃったそうですね。

子ども時代は「鍵っ子」だった純子さんも、今では4歳の娘を持つワーキングママ

松久: 「Matsuhisa」では、最初の2年間は利益が全く出なかったんです。女房が数年間パートに出てくれ、それがずいぶん家計の支えになりました。

純子: 母は当時、空港のカウンターで働いていて、朝早く出かけていくので、私は学校へバスで行ったり、友達のお母さんの車で送り迎えをしてもらったりしていました。基本は、“鍵っ子”。母が当時のことを言うんです。「あなた達とお菓子スタンドに行くと、無邪気に『お菓子を食べたい、食べたい』と言う。でもうちは貧乏で、娘2人に1枚ずつクッキーを買ってあげるお金が無いから、1つ買って半分に割ってあげていたのよ」って。

――あぁ、それは子どもを持つ母の身としてはとても切ない場面ですね…。聞いているだけで涙が出ます。

松久: 当時はとにかく貧乏でした。店を始めたとき、女房は「これでやっと、おすしがたくさん食べられる」と思ったそうです。でも、ありがたいことに繁盛して店内はいっぱいだったので、すしを食べたいときは、女房はよその店に行ってテイクアウトしていたんですけど。

 当時僕は朝5時に起きて魚や野菜の買いだしに行き、午前中に仕込みをしてランチをオープン。その後、ディナーまで、卵を焼いたり煮物を作ったり。そして17時45分からディナーがオープンして、夜中の1~2時まで働く日々でした。

 その後、お店がニューヨークやロンドンなどにもできて僕がロサンゼルスを離れるようになると、その間は、女房がオーナーとして昼も夜もお店に行ってくれます。今は女房のほうが、僕の原点である「Matsuhisa」にいる時間が長いですね。以前は僕が店にいないと、スタッフやお客さんから「NOBUはどこへ行った?」と言われていたそうですが、今は僕が店に行くと「今日、女房はどこに行った?」と言われます。

■父からの教えは「やり続ければ、必ずかなう」

――純子さんは共働きの家庭で育ち、しかも海外のあちこちで子ども時代を過ごされてきました。娘にとって、お父さんはどんな人でしたか?

純子: 「何かをずっとやり続ければ、必ずかなう」ということをいつも言われて育ってきました。また「人との約束を守ること」に関しては、特に厳しかったですね。高校生のとき、パーティーなどがあって帰りが夜中の1時になると伝えると、NOとは言わないんです。でも、1時を1分でも過ぎると、ものすごく怒られました。「約束が違う」と。

 それは今でも同じなので、時間には特に気を付けています。予定よりものすごく早く着くようにしていますね。

――純子さんが小学生のとき、お母さんは働いていてあまり家にいないことで、さみしく感じたことはありませんでしたか?

純子: さみしいと思った記憶は無いですね。妹がいたというのもあるかもしれませんが、マイナスに感じることは無かったように思います。

松久: 僕が、他のお店で職人として働いていた時代は休日があったので、休みの日の夜はできるだけ家族と一緒に過ごすようにしていました。僕は料理人なので、家で誰かの誕生日や記念日のときには、卓上コンロで海老や野菜をてんぷらにしたり、すしを握ったりすることもありました。家族との食事は、僕にとっても非常にうれしい時間でした。そのうち、店が忙しくなり、子ども達と一緒に過ごせる時間がなかなか取れなくなってしまいましたけど。

純子: そうだ、よく家で料理を作ってくれたよね。

■私達の娘なんだから、信じてあげましょうよ

松久: 子どもは成長していくと、親より友達が大事になっていきますよね。きっと、皆さんも経験があると思います。

 ロサンゼルスでは、週に1回、日本語学校に行かせていたのですが、お父さんの駐在で来ているお子さんも多く、転勤で日本に帰る家庭もあったんです。

 それで純子が「私も日本の大学に行きたい」と言い始めました。親としては、遠く離れてしまうのは心配。でも女房が「私達の娘なんだから、信じてあげましょうよ」と言って、「じゃあ、一生懸命勉強して、試験に受かったらいいよ」と。

純子: そして日本の大学に入りました。親から「あなたを信じている」といつも言われていたので、なんだか悪いようなことはできないという気持ちは常にありました。何かしようと思ったときに、親の顔がまず頭に浮かびますから。

松久: 結婚して今年で42年ですが、様々な家族の歴史がありますね。海外あちこちに行きましたが、「家族は我々4人だけなんだ」という血のつながり、家族の絆をいつも感じていました。家族で乗り越えられたことがたくさんあったと思うからです。

松久信幸さん
レストランオーナーシェフ。1949年埼玉県で材木商の三男として生まれ、父を7歳のときに交通事故で亡くす。14歳のときに訪れたすし店で、その雰囲気とエネルギーに魅了され、すし職人になると心に決める。海外へ移り住み、ロサンゼルスに店を構えたとき、和をベースに、南米や欧米のエッセンスを取り入れたNOBUスタイルの料理が人気を呼び、それ以降はニューヨークやイタリアなど世界中で次々と店を成功に導く。2013年4月にはアメリカのラスベガスに「NOBU Hotel」をオープン。現在、5大陸に35店舗を構え、NOBUスタイルの和食を世界の人々に味わってもらおうと各国を飛び回る。松久さんの長女、松久純子さんは「NOBU TOKYO」と食器やNOBUのロゴ商品を扱う「MATSUHISA JAPAN」 代表。4歳児の母であり、共働き家庭でもある。

(ライター 西山美紀)

[日経DUAL2014年11月19日付の掲載記事を基に再構成]

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