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「すべての学生は携帯を持っている」の否定文は? 桜美林大学教授 芳沢光雄

2015/1/6

 ごく普通の日本語なのに、数学を学ぶ際、理解しにくい言葉がある。「すべて(all)」と「ある(some)」である。数学でとても重要な言葉だが、日常会話とニュアンスが違うこともあり、なかなか頭に入りにくいようだ。実際、「すべての学生は携帯を持っている」の否定文を問われ、「ある学生は携帯を持っていない」と即答できる人は少ないと思う。分かっているようで分かっていない「すべて」と「ある」の数学的な意味について考えてみたい。

■ある2人の日本人は誕生日・時・分・血液型・性別・都道府県が一致する

 まず「ある」について。

 小学校での出前授業で、「鳩(はと)の巣原理」を用いた2つの話題を紹介したことがある。「鳩の巣原理」とは、「3つの巣と4羽の鳩がいて、全部の鳩が巣に戻ると、どこかの巣には鳩が2羽以上いる」という当たり前の考え方を一般化させたものである。


 一つは、「ここに9人いると、性別(男、女)と血液型(A、B、AB、O)が一致する2人が必ずいる」ことである。それは、性別と血液型の組は全部で8通りだからである。

 もう一つは、「ある2人の日本人は、誕生日の月と日、生まれた時刻の時と分、血液型、住所地の都道府県名がすべて一致する(年齢は異なっても構わない)」ことである。

 なぜならば、誕生日の月と日で366通りあり、生まれた時刻の時と分で24×60通りあり、血液型で4通りあり、住所地の都道府県名で47通りある。したがって、それらの組が全部でいくつあるかを考えると、それらの数字をすべて掛け合わせた数字になるので、


となる。ところが現在の日本の人口は1億2千万人を超えているので、「鳩の巣原理」により、現在生きているある2人の日本人は、誕生日の月と日、生まれた時刻の時と分、血液型、住所地の都道府県名がすべて一致するのである。

 上の2つの話題を紹介する前にウオーミングアップのつもりで、「この小学校の全校生徒の人数は約400人ですね。1年は365日か366日です。そこで、ある2人の生徒の誕生日は一致しなくてはなりませんね。このような考え方を『鳩の巣原理』と言います。分かりましたか」と話したところ、ある生徒が「先生、ボクと誰の誕生日は同じなんですか」と質問されて参ってしまった。

 私は、「ボクと誰かではなくて、誰かと誰かなんだよ」と答えたが、「ある2人」の意味を理解させるのに苦労したことを懐かしく思い出す。

スマホの普及では今では従来型の携帯電話を持つ若者は減ったが……(2001年5月、東京都内で)

 「ある」はこのように、どれとは特定はできないが、その条件に当てはまるものが存在するというようなときに使う。一方、「すべて」は数学では「一つ残らず」という意味。日常では、セールで除外品があっても「オール2割引き」とうたうなど「ほとんど」といった意味に使うこともあるが、数学は例外は一切許さない。いずれも一見普通の日本語だけに、専門用語と比べてかえって厄介ともいえる。

 「否定文」も誤って理解している人が多い。冒頭の例で説明しよう。「すべての学生は携帯を持っている」の否定文として「すべての学生は携帯を持っていない」という人がいるが、これは間違いである。否定文は「前提の文章が成り立たないこと」と考えるとすぐ分かる。この場合、一人でも携帯を持たない人がいれば、先の文章は成り立たない。「すべての学生」である必要はない。これを「ある」を使って言い換えると、「ある学生は携帯を持っていない」という表現になる。

■中学数学の文字計算と方程式にも

 中学数学になると登場する文字計算と方程式にも「ある」と「すべて」が出てくる。

文字計算


は、すべての数を代入して成り立つ「恒等式」である。一方、方程式


は、ある数(ここでは1)を代入して成り立つ式で、そのような数をすべて決定する問題となる。


を計算せよ、という問題に対して、「両辺?を6倍して」などと言って、


と計算しては間違いである。一方、方程式


を解け、という問題に対して、「両辺を6倍して」と言って、


と計算して解を求めることは正しいのである。

 計算式と方程式を混乱している中学生、高校生、大学生はかなり多くいて、数学教育の重要な課題だと思う次第である。

■微分積分を理解する上でも重要

 高校数学では、微分積分の準備として数列や関数の極限を学ぶ。そこに横たわっている「すべて」と「ある」の問題は、大学数学の微分積分の概念の核心部分に触れることであり、対応が難しい課題なのである。高校数学では、次のように述べている。

 一般にnが限りなく大きくなるにつれて、数列{an}の一般項anが一定の値αに限りなく近づくとき、 数列{an}はαに収束するといい、αを数列{an}の極限値という。
 たとえば、一般項bncn


で与えられる数列{bn}、{cn}を初項から具体的に書くと、それらは


となる。nが限りなく大きくなるとき、bnは2に近づき、cnは1に近づく。
 上で示した数列{bn}は限りなく2に近づき、数列{cn}は限りなく1に近づくが、「限りなく」という言葉の数学的な意味は曖昧なため、「限りなくαに近づく」という表現は誤解を生じさせやすい。数列

  1,0,1,0,0,1,0,0,0,1,0,0,0,0,1,…

は初項、第3項、第6項、第10項、第15項、第21項…が1で、その他の項は0である。この数列は、次第に1が出てくる頻度が少なくなり、先に行けば行くほど0がずらっと並ぶ。しかし、どんなに先の項を見ても、それより先に必ず1があるので、「0に限りなく近づく」とは言わないのである。

また数列


は奇数番目の項は0ではない。しかしながら、数直線上で0を両側から幅をもって含むどんな狭い範囲を考えても、その数列の十分先のある項以降を見ると、各項はその範囲内に例外なくすべて収まっている。そこで、この数列は「0に限りなく近づく」と言うのである。

 そこで、大学の数学では、誤解を生じやすい「限りなく近づく」という言葉に代わり、「ある」と「すべて」という言葉を使って同じことを表現する。「ε(イプシロン)-δ(デルタ)論法」と呼ぶものだ。
 数列{an}が数αに収束するとは、任意の正の数εに対し、ある自然数Mがあって、 M以上のすべて の自然数nについて
        |an - α| < ε   …(*)
が成り立つこと、と定義する。そして、αを数列{an}の極限値という。
 (*)は、数列{an}のaM以降のすべての項は、α-εより大でα+εより小の区間
(α-ε,α+ε)に収まることを意味している。

 関数の極限に関しても、同じように「すべて」と「ある」の問題が横たわっている。

 一般に関数fx)について、xaと異なる値をとってaに限りなく近づくとき、その近づき方がどのようなものであってもfx)の値が一定の値αに限りなく近づくならば、 xaのときfx)はαに収束するといい、αをxaのときのfx)の極限値という。「その近づき方がどのようなものであっても」という部分が、今回説明した「すべて」に相当する。高校の検定教科書にはないが、特に大切だ。拙著「新体系・高校数学の教科書(下)」でも説明したので、参考にしてほしい。

■「ある学生の身長は190cm以上である」の否定文は?

 「すべて」と「ある」の問題は、他にもいろいろある。

 空間図形で直線ℓが平面αに垂直であるとは、それらの交点Pを通りα上にあるすべての直線とℓが垂直であることを意味している。

 また、「この打者の打率は3割3分3厘で、第1打席と第2打席はアウトだったので、確率的に言って第3打席はそろそろヒットを打つ頃ですね」という表現は間違いである。確率はすべての場合にその割合になるということ。それまでに打っても打たなくても全打席が3割3分3厘ということなのである。

 確率という言葉を使う以上、数学的には「この打者の打率は3割3分3厘で、第1打席と第2打席はアウトでしたが、確率的に言うと第3打席も3割3分3厘ですね」という表現が正しいのである。

 最後に、冒頭で紹介した否定文の例をもう一つ紹介しよう。「ある学生の身長は190cm以上である」の否定文は? 「すべての学生の身長は190cm未満である」とすぐ答えられただろうか。

 「すべて」と「ある」が分かりにくいのは、曖昧な意味を許す日本語にも原因があるのかもしれない。複数形や単数形の問題もありそうだ。実際、英語を母国語とする人は、この2つの言葉を数学でもっと上手に使っているように思える。

 また、「すべての学生は携帯を持っている」の否定文を「すべての学生は携帯を持っている、ということはない」と述べるズルい用法も一因になっていると思う。かつて勤めていたある大学の入試の採点で、この用法で泣かされたことを懐かしく思い出す。

芳沢光雄(よしざわ・みつお)
 1953年東京生まれ。東京理科大学理学部教授(理学研究科教授)を経て、現在、桜美林大学リベラルアーツ学群教授(同志社大学理工学部数理システム学科講師)。理学博士。専門は数学・数学教育。『反「ゆとり教育」奮戦記』(講談社)、『新体系・高校数学の教科書(上・下)』『新体系・中学数学の教科書(上・下)』(ともに講談社ブルーバックス)、『ほんとうに使える数学 基礎編』『ほんとうに使える数学 レベルアップ編』(ともにじっぴコンパクト新書)など著書多数。

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