がんの告知と「魔の2週間」 日ごろ冷静な人も別人に
たとえ早期のがんであっても人は必ず取り乱す
「がんの疑いがあります」という言葉を、みなさんだったらどう受け止めるでしょうか。
がんの早期発見に大きな力になっているのが健康診断、がん検診、人間ドックなどの検査です。検査によって早期に発見できたなら、それは喜ばしいことのはず。ところがなかなかそうもいかないのが人間というものなのです。
40代のあるご夫婦のケースです。ある晩、富永大祐さん(仮名)が帰宅すると、奥さんの優美さん(仮名)が真っ暗な部屋で泣いていました。聞けば、以前受けた婦人科検診の結果が出て、「ステージIII」だと言われた、と。インターネットで調べたら「がんが広がっている」「転移が見られる」と書いてあった。「私はがんだ、手遅れだ、もうダメだ」と、優美さんはわんわん泣きながら訴えたそうです。
大祐さんは日ごろ冷静で穏やかな妻の豹変(ひょうへん)ぶりにびっくりしたようです。ステージIIIは確かなのか、そもそも婦人科検診でがんの進行度までわかるのか。しごくまっとうな疑問を口にし、とにかく優美さんを落ち着かせようと「大丈夫、大丈夫」と笑顔を見せたのですが、取り乱している優美さんは聞く耳を持ちません。それどころか「こんなに深刻なのに、あなたは笑っているばかりで、ちっともわかってくれない」と、夫を責める始末……。
正しく認識していれば大泣きする必要はなかった
実はこの騒動、優美さんが細胞診の判定分類である「クラスIII」を、がんの進度を示す「ステージIII」と、取り違えたことが引き起こしたものでした。
よくあるケースなので簡単にまとめますと、細胞診の結果は、「クラス1=異形細胞がない」「クラスII=異形細胞は存在するが悪性でない」「クラスIII=悪性と疑わしい細胞が存在するが断定できない」「クラスIV=悪性細胞の可能性が高い」「クラスV=確実に悪性」の5つに分類されます。優美さんが検診を受けてわかった「クラスIII」とは、がんになるかどうかもわからないレベルで、大泣きする必要はまったくなかったのです。
一方、「ステージ」はがんの進度の分類で、転移の有無などをもとにI~IV期に分かれています。先のケースで登場した「ステージIII」は、優美さんが集めた情報にもあったように、がんが進み、すでに「転移が見られる」といったやや深刻な状態です。
ここで何が言いたいのかというと、日ごろから冷静な人を別人に変えてしまうのが「がん」であるということなのです。そして、そんなときにこそ家族やパートナーなど、患者を取り巻く人の有りようが改めて問われるのです。
生存率が90%でも、「自分は助からない」と思い込む
がんは命に関わる病気ですから、告知をしたとき、「治るのか、治らないのか」「治せるのか、治せないのか」といった2つの結論が、患者さんとそのご家族にとっての最大の焦点となります。ところが、「早期がんだから、9割の人が助かっています」とお伝えしても、「いやいや自分は助からない方の1割になるに違いない」と考えてしまう人が非常に多いのです。
これは大変残念なことだと思います。というのも、「きっと死ぬんだ」と沈み込んでしまう人と、「自分は大丈夫だ」と希望を持って生きる人とは、その後の経過が全然違うといってもいいのです。医学をやっている人間として、科学的に説明のつかないものは信じたくないのですが、ストレスから解放されて前向きに過ごすことが、体に与える影響は計り知れません。患者本人のがんばりと、周りの温かいサポートによって、信じられないような出来事が起こることに幾度となく接してきました。その意味では、患者さんの思いを受け止め、寄り添えるご家族の存在もまた、この上ない力となります。
なかには、受診されたときにすでに末期で手の施しようがないケースもあります。こちらから伝えるにせよ、患者さんに「進行がんですか?」「助からないのですか?」と問われて答えるにせよ、告知の時は大変気を使います。そしてどんな心配りをして伝えたところで、ほとんどの方は「現状を正しく受け止める」ことができません。
告知の直後は、衝撃を受け、絶望したり、怒り出したり、がんであるはずがないと否認したり。その後は、不安、不眠、食欲不振など日常生活に支障をきたす症状に多くの人が悩まされることになります。私はこの期間を"魔の2週間"と呼んでいます。程度の差こそあれ、がんの告知を受けてから適応するまでにはそのくらいの時間がかかるものなのです。
「生きるか、死ぬか」の二択に目を向けない
ご家族には、「患者さんはものすごくわがままになります」と説明し、理解してもらえるように努めます。ですが、看病に疲れたパートナーに「おまえは俺が死ねばいいと思っているんだろう?」という投げやりな言葉をぶつけたりするのですから、ご家族はどれだけ苦しいことか。残念なことに、がんをきっかけに離婚をしたり、ご家族の絆が切れてしまったりするのは、場合によっては無理もないことなのかもしれません。
ですがその一方で、がんになったからこそ、それまで以上に支え合って生きていく見事なご夫婦を今までたくさん見てきましたし、闘病を通して家族の絆が強くなることもあります。
がんになるということは、本人にとってはもちろん、家族にとっても大変な災難です。ですから、今あるこの状況の中で、精神的にも肉体的にも最も軽いダメージで済ませるにはどうしたらよいかを考えていただきたいと思うのです。とにかく頭を切り替えて、「生きるか、死ぬか」といった二択の結論から目をそらすことが大切。日々の仕事や生活、自分の生きがいなどに集中したり、没頭したりするのでもいい。
少し不適切なたとえになるかもしれませんが、がんは交通事故や血管アクシデント(心筋梗塞、脳梗塞など)で突然死んでしまうことに比べれば、期限付きではあっても、というより、期限付きであるからこそ、残された時間を充実させる道が残されています。
「自分の命を後悔なくまっとうしてほしい」
どんなケースのがんであっても、私はこう祈るような思いで、日々患者さんやご家族に向き合っています。
(まとめ:平林理恵=ライター)
東京ミッドタウンクリニック健診センター長、常務理事
1947年、和歌山県生まれ。千葉大学医学部卒。76年に国立がんセンター放射線診断部に入局。同センターのがん予防・検診研究センター長を経て、現職。ヘリカルスキャンX線CT装置の開発に携わり、早期がんの発見に貢献。2005年に高松宮妃癌研究基金学術賞、07年に朝日がん大賞を受賞。主な著書に「がんはどこまで治せるか」(徳間書店)。
健康や暮らしに役立つノウハウなどをまとめています。
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