「赤ちゃんをくくりつけて小説を書いたるで」ができない…

それで赤ちゃんにずっと向き合っている日が1週間くらい続くと、また考えるんですよ。「小説を書き始めて6年目の30代の大事な時期、今一番技術的に鍛えないといけないのに。この貴重な時期に小説を書かなくなったら…私はもう書けなくなってしまうかもしれない、何をしているんだろう」と。当時のジレンマを表すと、「24時間育児して、24時間仕事したい」のが本音でした。

芸術家・岡本太郎さんのお母さんで小説家だった岡本かの子さんが、太郎さんを生んだときに、「太郎さんを柱にくくりつけて小説を書いた」という有名なエピソードがあるんです。産む前までは、「このエピソードのように赤ちゃんをくくりつけて小説を書いたるで」と、自分と赤ちゃんを簡単に切り離せる気でいたんです。

でも、実際は全然できない。赤ちゃんがちょっと泣くと、体が引き寄せられるの。自分が泣いたり悲しんだりするのと同じように、ひょっとしたらそれ以上に悲しかったり、ダイレクトに受けるんですよね。子どもは自分とは別の人間ではあるのだけれど、言葉がはっきりしない2歳ぐらいまでは、母親の体の延長にある気がします。初めて息子をシッターさんに預けて仕事に出かけたとき、電車で向かったのですが、子どもと私をつないでいる糸がふわぁと伸びていくイメージがありました。さらに痛感したのはおむつ替えのとき。

あべちゃんが替えてくれているのを見て、自然と「ありがとう」「あ、ごめんね」と言っちゃう。二人にとって大切な存在に対して当たり前のことをしているだけなのに、「ありがとう」って何? と、あるとき引っかかったわけですよ。あべちゃんに「私がおむつ替えをしていると、私に対して『ありがとう』『ごめんね』って思う?」と聞いてみたら、きょとんとしていました。「そういう発想は全くない」と。

そのとき、ああそうかと。やっぱり自分の体から生み出した赤ちゃんだから、赤ちゃんの排泄物も自分のもののように感じるんですよね。赤ちゃんが泣いていると、自分が泣いているように、自分が迷惑をかけているような気持ちになるんです。特に排泄という、より体に近いものだからこそ、お母さんに植えつけられた身体性が確かにあると思いました。

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気づけば刷り込まれていた“お母さん的な物語”