ミシェル・ダルベルト「来日30周年記念ピアノ・リサイタル」シューベルト弾きが歌い上げる親密な音楽の「物語」

テレビ番組を通じて日本でも人気者となったフランス人ピアニスト、ミシェル・ダルベルト(59)。10月16日には紀尾井ホール(東京・千代田)で「来日30周年記念ピアノ・リサイタル」を開いた。世界屈指のシューベルト弾きとしての感性あふれる歌い回しに磨きがかかり、さらに深い味わいの音楽を聴かせた。ラヴェルやフォーレなどフランス音楽でも新境地を開いている。

世界屈指のシューベルト弾きとして知られるミシェル・ダルベルト(10月16日、東京都千代田区の紀尾井ホール)

イタリアのピアノメーカー「ファツィオリ」のグランドピアノが置かれた紀尾井ホールのステージ。ダルベルト本人が前日に都内のファツィオリのショールームで物色したそのピアノは、2010年のショパン国際ピアノコンクールで使われた名器だ。会場は満席で、女性客が圧倒的に多い。ダルベルトは06年、NHKテレビの「スーパーピアノレッスン」で得意のシューベルトをはじめロマン派作品の演奏を視聴者に指南し、日本での知名度と人気を不動のものとした。

単なる人気者ではない。世界屈指のシューベルト弾きであり、すでに1995年にはシューベルトの膨大なピアノ作品全集の録音を達成している。それは14枚組CDとして日本コロムビアから発売され、英グラモフォン誌で大きく取り上げられるなど、欧州で高く評価された。

「15歳の頃からシューベルトに強く引き付けられた。私が探し求めていた音楽のすべてがシューベルトのピアノ曲の中にあった」。15日に都内で会ったダルベルトはこう話し始めた。「当時シューベルトのピアノ曲にまともに取り組んでいたのはブレンデルくらい。だからシューベルトを弾くなんて相当の変わり者だね、と言われたものだ。しかもフランス人なのになぜ(ドイツ=オーストリア系の)シューベルトに熱中するのかってね」。

東京に到着したばかりのダルベルト(10月15日、東京都港区のファツィオリ・ショールームで)

パリ生まれのダルベルトは1975年にクララ・ハスキル・ピアノコンクールで優勝し、一躍世界の注目を浴びた。84年以来、来日を重ね、NHK交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲で協演するなど、シューベルトのほか、シューマン、ブラームスといったドイツ=オーストリア系の音楽に定評があった。しかし「最近は自国のフランス音楽にも力を入れていますよ」と話す。「ラヴェルやドビュッシーらのフランス音楽に取り組み始めたのは確かに遅いが、語弊を恐れずに言えば、シューベルトに比べればはるかに簡単だった」

ではシューベルトの難しさとは何か。「彼の音楽は難しくないことこそが最も難しい点だ」とダルベルトは強調する。「ただ弾くだけなら10代の生徒でも可能だ。モーツァルトと同様に音符が少ない。しかし作品は非常に長い構造を持っている。演奏の深みが必要になる」と語る。「今でもシューベルトが最も好き。彼の歌曲もピアノ曲として面白い。私はドイツ語をあまり話せないが、ドイツ語と音楽は特別な関係だ」。シューベルトに心底ほれ込んでいる様子である。

そんなシューベルト弾きのリサイタルの1曲目は意外にもベートーベンの「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調『月光』作品27の2」だった。必ずしも彼が得意とする曲ではないらしい。第1楽章では弱い音量の分散和音が淡い光を漂わせながら早くも幻想的な雰囲気を作り上げる。旋律を形作る音が少ないにもかかわらず、分散和音の中から息の長い歌を紡ぎ出す。誰か身近な仲間たちに物語を聞かせる「読み聞かせ」の姿勢が浮かび上がる。

「月光」のゆっくりした曲調の第1楽章は、まさに難しそうではないのに実際は難曲である事例の1つではなかろうか。「ソナタ第13番」とともに同じ「作品27」とのセットになっており、どちらも「幻想曲風ソナタ」という題名が付いている。ダルベルトの演奏は、厳格なテンポ管理の中で、音量や音色によって響きを微妙に表情付けしていくもので、弱音の表現が繊細だ。3つの楽章が「序―破―急」で進むソナタだが、速い楽章に進んでも、テクニックで圧倒することはない。激流に飲み込まれるような物語に聴き手を招き入れるといった風情である。