2400年前の泥炭地のミイラ 最後の食事はおかゆだった
ボグボディー(Bog Body)は「湿地遺体」の意味で、北欧や英国の泥炭地(ピートボグ)で見つかる保存状態の良いミイラ化した遺体のことだ。細かい表情が残っていたり、殺害など過去にどのような経緯で死に至ったかがわかっていたりするボグボディーもある。
ボグボディーの中でもよく知られているのが「トーロンマン」だ。1950年に、デンマークの中北部で泥炭を掘っていた人たちによって発見されたこの鉄器時代の男性は、毛糸の帽子をかぶっており、首の周りには紀元前350年ごろに彼を絞め殺すのに使われた革ひもが巻かれている。トーロンマンは謎に包まれた殺人事件の犠牲者なのだ。
トーロンマンが絞め殺されたことがわかっているように、ボグボディーの多くは殺害の方法(鈍器による外傷、のどを切り裂く、窒息させるなど)が判明している。しかし、どういう理由で死ぬことになったのかについてはわかっていない。
彼らは無差別殺人の犠牲者なのか、それとも儀式のいけにえだったのか。いけにえであれば、どういう理由で選ばれたのか。いけにえとなる人には、死への恐怖をやわらげるための、最後の特別な食事なり毒物なりが与えられたのか――。すべて謎だ。
2021年7月21日付の学術誌『Antiquity』で、トーロンマンの最後の食事を詳細に分析した研究成果が発表された。これによると、最後の食事には特段、「驚くべき点が何もない」という意外な事実がわかった。
デンマークの泥炭地でトーロンマンが発見された70年前、研究者たちは、保存状態の良い胃と腸管を調べ、遺体は中年の男性であり、死の12~24時間前に最後の食事をとっていたと推定していた。
今回、トーロンマンを保管しているデンマーク、シルケボー博物館のニナ・ニールセン氏が率いる研究チームは、新技術を用いてトーロンマンの消化管の内容物を再調査した。ボグボディーの消化管の広範囲にわたる分析で、植物の大型化石、花粉、さらに食べ物や飲み物を示す微小な証拠が見つかったという。
焦げたポリッジ
分析の結果、トーロンマンが最後に口にしたのは、大麦、アマ、野生の雑草の種、魚などを使ったポリッジ(かゆ)であったことが示された。
これまでの調査で、ヨーロッパの鉄器時代のものと考えられている他のボグボディー12体について、同様の分析がなされている。それによると、当時の人々は穀物を主とした食事をし、ときどき肉やベリーを食べていたという。トーロンマンの最後の食事も、ほぼ同じようなものだ。ただ、鉄器時代の食生活に関するデータの大半は、保存状態の良いボグボディーから得られたものであり、これだけで当時の典型的な食事とは断言できない。
研究者は、トーロンマンの最後の食事がどのように調理されたかも特定している。炭化したポリッジの微細な断片が確認できたため、ポリッジは土器で調理され、やや焦げていたことがわかったのだ。
「平均的な食事がどんなものだったか、おおまかにつかめることはありますが、この研究では、実際にこの人物が亡くなったその日に何を食べていたのかをつきとめました」とニールセン氏は言う。「こうした事実をカギに、彼の死がどのように起こったのか、真相により迫ることができるのです」
ニールセン氏のチームは、トーロンマンが幻覚剤や酩酊(めいてい)剤、鎮痛剤などの特殊な物質を摂取していたかどうかも調べた。もし見つかれば、彼の食事が儀式の一部だった、あるいは苦しみを緩和するためのものだった可能性が出てくる。
ちなみに、別の有名なボグボディーであるリンドウマン(紀元1世紀ごろに現在のイングランド北西部で殺害された)についての過去の研究では、消化管からヤドリギが見つかっている。確かに古代にヤドリギが医療目的で使われていたことはわかっているが、リンドウマンの体内から見つかった量は少ないため、ヤドリギの薬効成分を摂取する目的で食べたわけではないだろうと、研究者らは述べている。
また先行する研究に、グラウベールマン(トーロンマンと同時代にデンマークの泥炭地に捨てられた遺体)に残っていた麦角菌について調べたものがある。麦角菌は穀物に寄生し、人間が食べると精神に深刻な被害をもたらすのだ。ただ、こちらも人体に影響を及ぼすほどの量は見つからず、偶然口にしてしまったものだろうと考えられている。
トーロンマンの体に残った内容物からは、幻覚剤や薬草に類するものは見つからなかった。「特別な薬を与えられていたことを示す証拠は見つかっていません」とニールセン氏は言う。
次の研究のターゲットはDNA
ニールセン氏の研究によると、ボグボディー数体の最後の食事には、儀式的な意味合いを示す類似点があるという。複数のボグボディーの体内から雑草の種子と雑草の脱穀のくずが見つかっており、特に多いのはタデの一種だった。
「最後の食事は穀類のかゆだけでなく、トーロンマンの場合には、多種多様な種子や雑草が含まれています」と、英カーディフ大学の名誉教授ミランダ・アルドハウス=グリーン氏は述べている。「この食事には、周囲の環境にあるさまざまな素材が含まれていることが重要だったのです。このこと自体に意味があるかのようにも見えます」
英バーミンガム大学の考古学教授ヘンリー・チャプマン氏は、欧州の泥炭地の変化に、人々の遺体がその中に埋められた理由を解明する鍵があると考えている。
英国のリンドウマンが亡くなる何年も前から、彼が最終的にその中で眠ることになる泥炭地では年々水が増えていた。このことは気候の悪化や、そこで暮らしていた人々にとっては農地が失われることを意味していたのかもしれない。
「環境に何らかの問題がある場合、昔の人は人間をいけにえにするという方法で解決しようとしてきました」とチャプマン氏は言う。
ボグボディー研究では、現在、DNA分析が次の目標に掲げられている。ボグボディーが見つかる泥炭地は酸性のため、遺体から遺伝物質を回収することは現在の技術では不可能だ。だが、研究者はボグボディーからDNAを取り出して分析する技術が近いうちに登場し確立されるだろうと考えている。
そんな研究者たちも、儀式的にいけにえとしてささげられた少数の遺体から得られた証拠だけに基づいて、鉄器時代のヨーロッパの日常とすることについては慎重な姿勢をとり続けている。
「ボグボディーは例外的なものです」とチャプマン氏は言う。「それは彼らにとっての祝福でもあり、呪いでもあるのです」
(文 ELIZABETH DJINIS、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年8月1日付]
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