日経エンタテインメント!

「個人」ではなく「分人」

前々作『マチネの終わり』で「未来は過去を変えられる」と書き、前作『ある男』では「愛に過去は必要か?」と問いかけた平野。今作では、様々な局面で繰り返し登場する「本心」というキーワードとともに、「最愛の人の他者性」を作品のテーマに据える。

「以前から、人というのは、『個人』、つまり、確固たる1つの自分でいることがよいのではなく、相手によって多種多様な顔を持つ『分人』を生きていくのだということを言ってきました。今回の『本心』でも、朔也は、母の過去をたどることで、生前は知ることのなかった母の顔、複数の分人に出会い、驚いたり、戸惑ったりします。僕は、共感は大切な感情だけれど、他者性、どこかで『分からない』ものだということも尊重すべきだとも思うんです。すべてを理解することはできない。でも諦めずに、分かろうとする。それが、他者と関わることなんだと」

SNSでの発信や、オンライン読書会の主宰など、読者とのやりとりに積極的な作家でもある。

「僕は、現代の小説家として、現代人のために小説を書いています。だから、今の人の心情を知る術として、読者とのやりとりは、とても重要。その時その時の世の中の雰囲気と共振し、曖昧で、割り切れないものをすくい取っていく。それが、小説家として自分がすべき仕事だと思っています」

小説を読む喜びが、今を生きる希望になる。そんな1冊である。

(ライター 剣持亜弥)

[日経エンタテインメント! 2021年7月号の記事を再構成]

「本心」
“自由死”と称される安楽死が合法化された近未来の日本。石川朔也は、自由死を望んでいた母の本心を知るべく、仮想空間の中で人間を再現する「VF」で、亡くなった母を作ることを決意する。バーチャルな〈母〉と関わっていくことは、朔也が知らなかった母の人生を掘り起こすことでもあった。装丁の作品はゲルハルト・リヒター。母子の濃密な時間に漂うどこか不穏な雰囲気が、『本心』というタイトルを象徴するよう。