平野啓一郎 「バーチャルな母」通じて考える生の意味
自分だったら、どうするだろう。平野啓一郎の最新作『本心』を読み進めながら、読者は繰り返し自問することになる。心にわだかまりを残したまま最愛の人と死別してしまったら。大切な人が、自ら人生を終わらせることを望んだら――。母子家庭で育った29歳の朔也は、突然の事故で失った母を「作る」、つまり最新技術を使って、母そっくりの「VF(バーチャル・フィギュア)」を製作することを決意する。
「人が亡くなった後に何が残るのか、ということについて、ずっと関心があったんです。昔なら肖像画だったんでしょうが、それが今では動画になり、そのうちにインタラクティブなメディアが求められるようになるんじゃないか、と。それが、今回の『VF』です。実際、この作品の連載中にも、そういうものが世の中に次々と登場してきたんですよね。そして、そのことは、人々の死生観にも影響を与えると思うんです」
バーチャルな母親なんて嫌。作り物だ、本物じゃない。連載当初は、そういう意見も多かった。
「ただ、本物の母親がいなくなってしまったという喪失感を、なんとか埋めようとしている時に、周囲が『そんなの本物じゃないじゃん』って言っていいんだろうか、と思うんです。例えば今、経済格差が開いていく時代にあって、リアルな世界では何1つ楽しいことがないけれど、バーチャルな空間では自由になれるからとそこに入り浸る。そういう人に対して、リア充の人が、『そんなの偽物だ』って、言っちゃいけないと」
VFの〈母〉の存在が、朔也の、1人ぼっちになって現実世界でおぼつかなくなっていた足元に、少しずつ、確かなものを取り戻してゆく。それは、癒やしとか支えとか、そういうことよりももっと、「死ぬか、死なないか」というのっぴきならないところで、「生きていくこと」の意味を考えさせる。
「僕は、死に対してすごく恐怖感があるんです。死にたくない、とストレートに思うし、よく生きたい、という思いがある。小説でもそうです。コロナ禍以降は、いっそう強く、そのことを考えます。きれい事ではなく、今ある、今後ありうる困難を経つつ、でもやっぱり、生きていくことを信じられる小説を書かなくては、と思っています」
「個人」ではなく「分人」
前々作『マチネの終わり』で「未来は過去を変えられる」と書き、前作『ある男』では「愛に過去は必要か?」と問いかけた平野。今作では、様々な局面で繰り返し登場する「本心」というキーワードとともに、「最愛の人の他者性」を作品のテーマに据える。
「以前から、人というのは、『個人』、つまり、確固たる1つの自分でいることがよいのではなく、相手によって多種多様な顔を持つ『分人』を生きていくのだということを言ってきました。今回の『本心』でも、朔也は、母の過去をたどることで、生前は知ることのなかった母の顔、複数の分人に出会い、驚いたり、戸惑ったりします。僕は、共感は大切な感情だけれど、他者性、どこかで『分からない』ものだということも尊重すべきだとも思うんです。すべてを理解することはできない。でも諦めずに、分かろうとする。それが、他者と関わることなんだと」
SNSでの発信や、オンライン読書会の主宰など、読者とのやりとりに積極的な作家でもある。
「僕は、現代の小説家として、現代人のために小説を書いています。だから、今の人の心情を知る術として、読者とのやりとりは、とても重要。その時その時の世の中の雰囲気と共振し、曖昧で、割り切れないものをすくい取っていく。それが、小説家として自分がすべき仕事だと思っています」
小説を読む喜びが、今を生きる希望になる。そんな1冊である。
(ライター 剣持亜弥)
[日経エンタテインメント! 2021年7月号の記事を再構成]
"自由死"と称される安楽死が合法化された近未来の日本。石川朔也は、自由死を望んでいた母の本心を知るべく、仮想空間の中で人間を再現する「VF」で、亡くなった母を作ることを決意する。バーチャルな〈母〉と関わっていくことは、朔也が知らなかった母の人生を掘り起こすことでもあった。装丁の作品はゲルハルト・リヒター。母子の濃密な時間に漂うどこか不穏な雰囲気が、『本心』というタイトルを象徴するよう。
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