社歌に初挑戦 セリフの喉から歌の喉へ(井上芳雄)
第98回
井上芳雄です。今回は喉の話をしましょう。セリフをしゃべるときと歌を歌うときでは喉の使い方が違います。7月は福岡の正興電機製作所という企業の社歌をレコーディングしたり、音楽番組に出演したりと、歌手としての活動が増えました。その前は『首切り王子と愚かな女』の公演でずっとセリフだけのお芝居をしていたので、歌手の喉に変えていくのが結構大変で、準備やケアが必要でした。俳優と歌手のどちらもやっているミュージカル俳優ならではの、知られざる苦労です。
まずは社歌の話から。最近はテレビのバラエティー番組やラジオ番組で社歌が特集されたり、全国の社歌コンテストがあったりと、社歌が注目を浴びているそうです。だからというわけでもないでしょうが、正興電機製作所という、福岡に本社がある企業が新しい社歌をつくるにあたって、歌手として声をかけていただきました。電力、公共向けインフラ設備の制御装置、システム、サービスを手がける企業で、今年創立100周年を迎えるそうです。僕は福岡が地元なので、そのご縁なのかなと思います。
曲のタイトルは『SEIKO PRIDE(セイコウプライド)』。社名を連呼するCMソングみたいな感じなのかと思っていたら、社名は1回しか出てきません。誰が聴いても楽しめる曲調で、未来に希望をつなぐような歌詞です。よく聴くと、「地域をつなぐ」といった普通の歌ではあまり出てこない詞も入っています。僕が考えていた社歌のイメージとは違って、今の社歌はこんな感じなのかと驚きました。
社歌を歌うのは初めてなので、どう歌ったらいいか考えたのですが、僕の個性や解釈を前面に出すのは違うと思い、曲調と同じように、たくさんの人に受け入れられやすい歌い方や歌声を意識しました。社歌として聴きやすいといいなと。不思議なもので、社歌を歌っていると社員の一員になったような気分になります。今はコロナ禍なので会社にうかがったりできませんが、いつか社員の皆さんの前で歌う日が来るのかなとも。そんな、あまり味わったことのないような気持ちにもなりました。
社歌のレコーディングは『首切り王子と愚かな女』の地方公演が全部終わってから1週間後でした。お芝居はずっとセリフだけだったので、歌う喉ではなくなります。6月の東京公演で完全にセリフの喉になり、地方公演はそこまで回数は多くなかったのですが、1公演でもやると、またセリフの喉に戻る感じはあるので、そのなかで少しずつ、歌える喉に変えていくのは結構難しいこと。社歌のレコーディングまでに歌の喉に戻さないといけなかったので、その準備やケアにも気を遣いました。
セリフと歌では、喉の使い方が全然違います。基本的にセリフをしゃべっているときは音域のレンジが狭くて済みます。もともと日本語は、例えば英語やイタリア語、韓国語と比べると抑揚が少なく、声の幅や高低が狭い言語です。怒鳴ったり叫んだりしても、その狭い音域の中でのこと。セリフの高低や音量は、稽古をしたり本番を重ねていくうちに決まってくるので、毎日しゃべっているうちに、その範囲はすごく出やすくなります。叫びやすくもなるし、多少声を使ったとしても平気です。その反面、セリフの音域より高かったり、低かったりする声を出せる喉ではなくなってしまいます。
一方、ミュージカルの発声では、より高く、より低くを求められるのですが、そういう普段使ってない音域は、ある程度トレーニングを続けていないと出せません。歌手は、基本的にずっと訓練しているので、高い音や低い音を出せるのです。僕もそうで、セリフだけのお芝居を2カ月くらい続けていると、狭い音域のセリフを言う喉になり、広い音域を歌う喉に戻すのに時間がかかります。
逆に言うと、ミュージカルの稽古をしていて、役の喉になってきたなと思うのは3週間から1カ月くらい歌い続けたとき。稽古でも最初の頃は、ここの音域が出にくいということがあるのですが、毎日歌っていると、役の喉に変わっていきます。
イディナ・メンゼルの言葉に勇気づけられ
喉をつくるのは、ミュージカル俳優にとって難しい問題です。それはブロードウェイで活躍している人たちでも同じ。アニメーション映画『アナと雪の女王』の主題歌『レット・イット・ゴー』を歌ったイディナ・メンゼルという女優さんに、こんな出来事がありました。当時彼女はロングランしている舞台に出ていて、年末にタイムズスクエアでのイベントで『レット・イット・ゴー』を歌ったとき、映画と同じような声が出ませんでした。それを批判されたのに対して、彼女は「舞台を続けながら、違う曲を歌うのはとても大変なこと」と反論しました。僕はそれを知り、すごく勇気づけられました。プロだから、どんなときでもベストなコンディションで歌うのが前提ではありますが、全然違う音域で急に歌うのは、彼女ですら大変だったのです。彼女の来日コンサートにゲストで出たとき、その話を本人にしたら、「本当にそうなのよ」と言っていました。
それくらい歌の喉をつくるのは大変なのですが、じゃあどうすればうまくいくか。理想は、ひとつのお芝居が終わったら、2週間くらい休んで喉を元に戻すことでしょう。欧米だと、俳優は1つの役が終わったら、演技コーチのところに行き、その役の癖を取る作業をするそうです。声の出し方や体の使い方が、その役になっているから、新しい役に入る前にニュートラルの状態に戻すということですね。でも日本では、そういう習慣はないし、スケジュールの余裕もありません。もちろん僕もやっていないです。だから、そこは俳優自身の課題として、気をつけるべきことだと思っています。
僕も、アイシングするなど、喉のケアにはすごく気を遣っています。どちらかというと強いほうだとは思いますが、年々身体も変わっていくので、より気を遣うようになっています。使い過ぎないのも大事なこと。歌は響かせたりして、消耗が少なくて何十曲でも歌い続けられる喉の使い方をしますが、セリフは日常の延長線上にあって、ドラマチックなシチュエーションも多いので消耗が激しくなります。なので怒鳴ったり、感情的になる場面では多少セーブしたり、バランスを取ったりできると一番いいと思います。でも、本番が始まってしまうとそんなことを考えられないというか、セーブしている自分を許せなく感じてしまいます。全力でやるのが舞台の面白さでもあるので、いまだに僕もうまく調整できません。
声帯が傷ついたり腫れたりして声が出ないこともあるし、声帯の周りの筋肉が硬くなっていて出ないこともあります。胸筋や背筋を使って声を出すので、筋肉をほぐしてあげるとぱっと声が出たりします。だから、ケアはあの手この手。アスリートが丁寧に身体の手入れをするのと同じです。
同業者で分かち合いたいテーマ
喉の準備も大事です。お芝居の本番をやりながら、10日前ぐらいから、この日は歌の仕事がある、と思っているだけでも調子が違います。喉は精神と深くつながっていて、かれてもいいと思っていると本当にかれるし、気持ちの問題も大きいのです。オリンピックにしても、アスリートは4年間のピークをそこにあわせて調整しますね。僕たちも気持ちの上ではそれと同じで、その日の仕事の種類にあわせて、自分の身体が一番適した状態になるように、計画を立てたり、準備をして臨みます。
今回の社歌のレコーディングも、そんなふうに歌の喉をつくって臨み、プロの歌手の仕事としてちゃんとやれたんじゃないかと思います。すごい高音があったり低音があったりではなく、しゃべっている音域を広くしたくらいだったのも幸いしました。もっと広い音域だったら、喉の準備がより大変だったかもしれません。
ストレートプレイ(セリフだけの演劇)と、ミュージカルや歌手では、喉の使い方が違っていて難しいね、という話は、浦井健治君ともよくします。セリフの喉から歌の喉に、どうしたらスムーズに移行できるか。それはミュージカル俳優に共通の課題ではないでしょうか。僕も年々経験を積み重ねてはいますが、こうしたらいいというやり方はまだ見つからないし、人によっても違うと思うので、絶対的なものはないのかもしれません。他の人たちはどうしているのか、同業者で分かち合いたいテーマではあります。
ミュージカルを中心に様々な舞台で活躍する一方、歌手やドラマなど多岐にわたるジャンルで活動する井上芳雄のデビュー20周年記念出版。NIKKEI STYLEエンタメ!チャンネルで月2回連載中の「井上芳雄 エンタメ通信」を初めて単行本化。2017年7月から2020年11月まで約3年半のコラムを「ショー・マスト・ゴー・オン」「ミュージカル」「ストレートプレイ」「歌手」「新ジャンル」「レジェンド」というテーマ別に再構成して、書き下ろしを加えました。特に2020年は、コロナ禍で演劇界は大きな打撃を受けました。その逆境のなかでデビュー20周年イヤーを迎えた井上が、何を思い、どんな日々を送り、未来に何を残そうとしているのか。明日への希望や勇気が詰まった1冊です。
(日経BP/2970円・税込み)
1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP)、『夢をかける』(日経BP)。
「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。8月21日(土)は休載。第99回は9月4日(土)の予定です。
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