スキルとチャレンジの関係
稲田さんの言葉から、どんなことを感じましたか? 稲田さんは入社後、ビジネスパーソンとしての必要な基礎スキルを習得していきました。社内調整業務も覚え、プロジェクトマネジメントの立場で現在の業務に向き合い、おそらく社内でも期待されていた優秀な人材だったのでしょう。入社前からもインターンシップを経験して、働き方のイメージを自分なりに作り、着実にキャリア形成をしてきたといえます。
だからこそ、大きな組織が抱える様々な問題にも直面することになります。
稲田さんは仕事に疲れ、モヤモヤを抱えている当時のことを、「フロー(没入)状態に入れていない」とも話していました。仕事における「フロー状態」とは、スキルとチャレンジの関係性がうまく折り合っているときの集中・没頭状態のことを言います。社内でスキルを積んできたのに、簡単な業務を続けていると仕事を「退屈」に感じてしまうものです。
逆に入社してすぐ、スキルがまだ追いついてないときに、大きな役割を担うことになると「不安」に感じてしまうのです。稲田さんがオーバーワークでつらかった時期はこちらのパターンだったのかもしれません。オンラインでも適切な仕事量と仕事難易度であれば、集中して取り組むことができますが、スキルとチャレンジの関係がうまくいかないことはよくあることなのです。
仕事量や社内調整が大変、などの不満を理由にして辞めようと考える若手社会人は少なくないのではないでしょうか。私が稲田さんのケースで着目したいのは、それをきっかけに自問自答し、「そもそもやりたい仕事は何か」という視点を持つことができたことです。自身のありたい姿やキャリアの方向性について徹底して向き合い、うまくセルフマネジメントしてきたのです。
稲田さんのキャリアトランジッション(キャリアの変化)の方向性として確認できるのは、大きな組織の中で働く「組織内キャリア」から、自分を起点として考える「自律型キャリア」への転換です。大企業特有のストレスからは解放されるものの、自律型キャリア形成での新たな課題にも直面することでしょう。
大きな組織の中でキャリアを形成していれば、仕事がもらえるか、給料をもらえるかといったことを心配する機会は少ないです。一方で、起業や独立など自分の名前で仕事をしていくとなると、自ら業務を受注したり、生み出したりしていかなければならないのです。仕事の持続性を不安に感じることもあるでしょう。
しかし、もしそのような局面になっても、稲田さんが発した先ほどの問いかけは重要です。
「10年後、自分の住みたい世界/大切な人が幸せに生きられる世界をつくっているか?そのために、今の仕事に向き合っているかどうか」
稲田さんが自問したこの問いかけを、私たちも自身に投げかけてみましょう。働くとは自らを大切にしながら、社会的に何らかの貢献をしていくことです。目の前の業務をこなし、その対価として給料をもらうという理解から、もう少し視野を広げて仕事に向き合うようにしてみましょう。
私たちは、なぜ働くのか。それは、社会の問題、組織の問題、個人の問題、それぞれの問題を仕事を通して解決していくことなのです。
1976年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程を経て、メルボルン大学、カリフォルニア大学バークレー校で客員研究員。2008年に帰国し、法政大学キャリアデザイン学部教授。大学と企業をつなぐ連携プロジェクトを数多く手がける。企業の取締役、社外顧問を19社歴任。著書に「プロティアン―70歳まで第一線で働き続ける最強のキャリア資本術」(日経BP社)、「ビジトレ―ミドルシニアのキャリア開発」(金子書房)など。Twitterは@KennosukeTanaka(キャリアに関する様々な質問を受け付けています)