川の抗うつ剤汚染 米ザリガニに異変、捕食者に連鎖か
人間の治療に使われる抗うつ剤は、川や水路に入れば水生動物にも影響を与える。
2021年6月15日付で学術誌「Ecosphere」に掲載された論文によると、川で実際に観察される現実的な濃度の抗うつ剤シタロプラム(一般にセレクサの商品名で販売)にさらされたザリガニは、えさを探す時間が大幅に増え、身を隠している時間が減ったという。こうした行動の変化で、ザリガニは捕食者から攻撃されやすくなる可能性があり、また、いずれは河川の生態系に別の影響が及ぶことも考えられる。
「行動が大きく変化したことに驚かされました」と語るのは、論文の共著者で、米フロリダ大学の淡水生態学者リンゼイ・ライジンガー氏だ。「変化は非常に劇的でした」
実験は、自然環境を模した研究所内で14日間にわたり行われた。その結果、たとえば、抗うつ剤にさらされたザリガニ(Faxonius limosus)は、そうでない個体に比べて、えさを探すために隠れ場所から顔をのぞかせる、また外に出てくるまでの時間が約半分になった。
今回の研究は、自然を模した環境下でザリガニと抗うつ剤についての調査を行った初めての試みであり、こうしたタイプの医薬品汚染がどこまで広がり、どの程度の影響力を持っているのかに関して深刻な問題を提示していると、論文の筆頭著者で、米ケアリー生態系研究所の博士研究員として同研究に携わったアレクサンダー・J・ライジンガー氏は述べている。
米国ではほぼ8人に1人が服用
シタロプラムは、世界で最も広く処方されている抗うつ剤である「選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)」のひとつだ。15~18年の米国では、ほぼ8人に1人がSSRIを服用していたと米疾病対策センター(CDC)は報告している。
こうした薬剤は、気分、幸福感、不安などの調整を助ける神経伝達物質であるセロトニンのレベルを高めることによって、脳内の化学反応を変化させるよう設計されている。しかし、これは人間以外の、特に水中で生活するたくさんの生物たちの神経化学にも影響を与えてしまう。
薬物はいくつかの異なる経路から川に流れ込む。人間が錠剤を飲むと、そのうちのごくわずかな量が尿や便と一緒に排出されて、水漏れのある汚水処理設備や、薬剤を除去できない廃水処理施設から環境に入り込む。未使用の薬が排水口に捨てられることも少なくない。こうした汚染物質を排出している製薬会社もある。
海や淡水に暮らす生物は、いくつもの薬剤が混ざりあった水にさらされる可能性がある。英ポーツマス大学の毒物学者アレックス・フォード氏によると、これらの化合物の濃度は多くの場合、そう高くはないが、付加的な影響が出る場合もある。過去の研究では、SSRIはさまざまな水生動物の「不安様」行動を減少させ、ときには攻撃性と運動量の両方を増加させることがわかっている。
ライジンガー氏らが今回の研究で目指したのは、ザリガニがこうした薬物にどう反応するかを理解することだった。2週間にわたり、彼らは人工的な水流の中で、ザリガニを1リットルあたり500ナノグラム(ナノは10億分の1)のシタロプラムにさらした。流れの中には、ザリガニが身を隠せる岩や植物が配置されていた。
研究の一環として、彼らはSSRIにさらされたザリガニとそうでない比較対照群のザリガニとが、えさのにおいにどれだけ早く反応するかを調べた。前者のグループは、後者よりも隠れ場所から顔をのぞかせるのが2倍早く、外に出てくるのは1分近く早く、またえさが置かれた部分に滞在した時間は3倍以上だった。
実験では捕食者の導入は行われなかったが、こうした行動をとるザリガニは、野生においてはアライグマ、キツネ、大型の魚、鳥などの捕食者に食べられる可能性が高いだろうと、科学者らは考えている。
ザリガニは、川の中の落ち葉や水生昆虫の主要な消費者のひとつであるため、彼らの行動への影響は、生態系の広い範囲に及ぶ可能性があると、リンゼイ氏は述べている。今回の論文においては、シタロプラムにさらされていた間に、水中の藻類や有機化合物のレベルが上昇したことが指摘されている。これについて研究者らは、食事をしたザリガニがより多くの栄養分を排せつし、それによって藻類の成長が促された、あるいは、ザリガニの動きが活発になることで、藻類や栄養分が流れの底に沈むのが妨げられたのではないかと推測している。
上位の捕食者にまで
この実験は屋内で行われたものであり、そこには現実世界の条件がすべて含まれていたわけではない点には注意が必要だ。それでも、ザリガニがさらされた薬剤の濃度は、川や池で遭遇する可能性があり、一部の下水処理施設のすぐ下流では確実に発生するレベルのものだ。
09年に学術誌「Environmental Toxicology and Chemistry」に発表された研究によると、インドではある下水処理場の約30キロ下流で水1リットルあたり500ナノグラムのシタロプラムが、また複数の製薬工場がある地域では1リットルあたり7万6000ナノグラムが検出されたという。
抗うつ剤はさまざまな経路を通って生物を汚染する。ザリガニはエラから、またはえさである有機堆積物を介して化学物質を吸収する。一方、ザリガニをはじめとする抗うつ剤を吸収した小動物を食べる捕食者にも、そうした汚染物質は蓄積される。
オーストリアで行われた研究によると、ブラウントラウトとカモノハシは、抗うつ剤にさらされた生物を食べることによって、人間が治療に使う量の半分を日々摂取している可能性があるという。18年に「nature communications」に発表された同論文はまた、節足動物を大量に食べるある水辺にすむクモについて、体重の1%がSSRIで構成されていたことを発見している。
「それだけ多くの化学物質が体内に入っているのです」とアレクサンダー氏は言う。
医薬品汚染を防ぐには
使われなかった薬剤から環境を守るためには、不要になった錠剤は薬局に持っていくのが望ましい。それができない場合は、錠剤を容器から出し、コーヒーの出し殻のような味が悪く吸水性のあるものと混ぜてからゴミ箱に捨てるとよいだろう。
「自分の薬を適切に廃棄することで、医薬品汚染の削減に貢献することができます。排水口には決して流さないでください」とアレクサンダー氏は言う。
カナダ、マキュアン大学の研究者トレバー・ハミルトン氏は、今回の研究について、まさに今考えるべき課題だと評している。米国ではパンデミックの最中、うつ病症状の有病率が以前の3倍になった。
こうした急増は、排水中の抗うつ剤の濃度を「過去最高レベル」まで上昇させるだろうと、ハミルトン氏は言う。「これらの薬剤の影響を受ける神経化学的性質を持つ多くの生物にとって、これは難題となるでしょう」
(文 DOUGLAS MAIN、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年6月23日付]
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