「ボスニアの状況の複雑さが、対応を格別に困難なものにしています」と、IOMボスニア・ヘルツェゴビナ支部代表のローラ・ルンガロッティ氏は話す。「多くの人がこれを移民危機と呼びますが、そこには誤解があります。すべての人のニーズと権利を満たす仕組みや戦略が、現時点で存在していません。そのことが、この問題を緊急かつ切実なものにしています」

移民受け入れ施設から医療サービスまで、あらゆることが政治的な緊張感を高め、分断を深めている。「国が分断されているのと同じだけ、この問題に関しても分断があります」とルンガロッティ氏は言う。

ボスニアの田園地帯で、仲間の散髪をする男性。クロアチアを経てドイツなどの国への亡命を希望している(PHOTOGRAPH BY ZIYAH GAFIC)

新型コロナウイルスの影響も

新型コロナウイルス感染症の第3波によって、ボスニアの病院の収容力は限界に達している。人口330万人に対して7000人の死者を出しているボスニアは、欧州で最も被害の大きい国の一つだ。AP通信によると、移民受け入れ施設では厳格な予防措置が取られていたにもかかわらず、4月、2週間のうちに147人が陽性反応を示したという。ほぼ全員が無症状で、隔離施設に移された。

ルンガロッティ氏が危惧しているのは、今回のパンデミックによって移民に対する国民感情が悪化することだ。「移民や難民、亡命者を、ウイルスのキャリアとして見るべきではありません。どんな立場であれ、ウイルスに感染する可能性があるのは同じです」

施設の外で暮らす推定1700人の人々にとって、ボスニアでの生活はさらに厳しいものだ。廃虚でキャンプをしたり、川で水浴びをしたり、たき火で料理をしたりしている。こうした状況と、それに対処しない政府の姿勢は、人権団体から広く批判されている。

バルカン半島の冬はとても寒い。ビニールシートと毛布は、難民たちにとって唯一の防寒具だ(PHOTOGRAPH BY ZIYAH GAFIC)

世界各地で難民危機を撮影してきたガフィッチ氏にとって、不衛生で、冬は凍えるように寒い野営地は、パキスタンのペシャワルにあるアフガン難民キャンプや、バングラデシュのコックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプを思い起こさせるものだ。

90年代初頭にユーゴスラビアが解体し始めた時、ガフィッチ氏は12歳だった。両親は彼を連れてボスニアを脱出し、マケドニア、クロアチア、ハンガリー、イタリアなどを18カ月間、難民として渡り歩いた。当時、270万人ものボスニア人がガフィッチ氏と同じように故郷を追われた。しかし、そうした彼の友人たちの間ですら、貧困や遠く離れた紛争から逃れてきた人々への共感は乏しいという。

「土地を追われたというこの感覚は、なかなか抜けないものです」とガフィッチ氏は語る。「意識の一部にしみこんでしまって、常に旅をしているような気分なのです。今、ボスニアにやって来ている人々の中には、6年、7年、8年と旅を続けている人もいます。私にとって、彼らの状況に共感するのはあまりに自然なことです。他のボスニア人も同じように感じてくれると思っていたのですが」

ある施設でガフィッチ氏は、アフガニスタンからやってきた28歳のサフィと出会った。警察官だった父親が過激組織タリバンの拠点地域であるクンドゥズで殺された後、国を離れたのだという。サフィはボスニアで、英語と、4つか5つの言語との間の通訳を手伝っていた。

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