健康診断は義務 治療の指示に抵抗、マイナスばかり
こちら「メンタル産業医」相談室
コロナ禍で働き方改革が進み、「満員電車に乗らなくてよくなった」「嫌な上司や同僚と顔を合わせずに済む」などの声が聞かれる一方で、むしろストレスが増えたと訴える人も少なくない。
「ストレスの原因は、会社という組織そのものに根差している」
そう語るのは、最新刊『「会社がしんどい」をなくす本 』を出版した精神科医・産業医の奥田弘美さん。奥田さんは現在、約20社で産業医を担当。これまでに2万人以上のメンタルヘルスをサポートしてきた。
奥田さんの著書から、今も昔も変わらない働く人の心身のトラブルについて探っていこう。
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こんにちは。精神科医・産業医の奥田弘美です。
今回はまず、私が研修医時代に出会った、忘れられない患者さんについて話をしたいと思います[注]。
Fさんは証券会社の営業マンでした。
若いときからバリバリと業績を上げ、大型支店の支店長を務めること数年、支店の業績がかつてないほど好調になり、そのお祝いのパーティーでのことでした。
乾杯した途端に、Fさんはバタンと倒れて病院に搬送されてしまったのです。
緊急検査の結果は、広範囲の脳梗塞。実はFさんは、30代後半から高血圧を指摘されていたのに、治療を拒否していたそうです。
[注]エピソードでは、個人や団体が特定されないように情報を適宜加工しています
口癖は「血圧はその気になれば自分で下げられる」
Fさんは、健康診断を受けるたびに高血圧を治療するように言われていたのですが、大の病院嫌いで薬嫌い。
「血圧の薬を飲み始めると、一生飲まなくてはならなくなる。薬には副作用もあるし怖い。ダイエットや運動をすれば、これぐらいの血圧なんて自分で下げられる」と言い続けて、高血圧を放置していました。
家族の話では、Fさんは支店長になってから多忙を極めた毎日を送り、連日深夜に帰宅し、土日もめったにゆっくり過ごすことなくしょっちゅう接待ゴルフやイベントなどに精力的に出かけていたそうです。
40代を過ぎてからも高血圧はじわじわと悪化し、170/100mmHgを超える状態になっていました。
本来はこのような高血圧の社員がいたら、産業医から受診するよう指導が入ったり、血圧が下がるまで残業制限などの就労制限措置がなされたりします。しかしこの会社は、本社にこそ産業医がいたのですが、支店までは指導が十分に行き届いていなかったようでした。
Fさんは高血圧を放置した結果、動脈硬化が進行し、また不規則な生活のために、コレステロールや中性脂肪の数値も悪化していました。そしてある日、Fさんの脳血管はとうとう詰まってしまい、大きな脳梗塞を起こしてしまったのでした。
左大脳半球の広範囲に及ぶ脳梗塞であったため、Fさんは2週間ほど生死の境をさまよい、命は取りとめたものの、右半身のマヒが残り右腕も右脚も全く動かなくなってしまいました。
さらに脳の言語中枢もダメージを受け、言葉が十分に話せなくなりました。言語中枢がやられると、思っている言葉が出なくなったり(運動性失語)、相手の言葉が理解できなくなったりします(感覚性失語)。
Fさんは、命こそは取りとめましたが、右半身のマヒと失語症のため働くことができない体になってしまったのです。
Fさんは長い入院生活を経てリハビリの結果、半年後には杖(つえ)を使った歩行ができるようになりました。言葉も「あ、これ」「うん、そう」などと片言ならば話せるようになってきました。
しかし失語症が完全には回復せず、会話が十分にできるようにならなかったため、休職満了の後、結局退職しました。
社員には健康診断を受ける「義務」がある
健康診断の結果を見ると、40代ぐらいから血圧や血糖値、コレステロールや中性脂肪など脂質関連の数値、肝機能を示す数値などに異常が出てくる人がグッと増えてきます。若いころからの暴飲暴食、喫煙、運動不足など、不健康な生活をしていた人ほど、異常値がどんどん出てくるのです。まさに今まで健康をなおざりにしていた人ほど、ツケが回ってくる時期だといえるでしょう。
私は産業医として多くの社員の健康診断の結果を日々チェックしていますが、Fさんのように高血圧が悪化したり、また糖尿病が本格的に出現して治療が必要になってきたりした人に出会うことがよくあります。
中には、あまりにも悪い数値のために、就業上の制限を会社に意見することもあります。高血圧や糖尿病、肝機能障害などが高度に悪化した人は、仕事中に危険な状態に陥ることがあるからです。
あなたは健康診断を毎年きっちり受けているでしょうか?
実は、社員が健康診断を受けることは、法律で義務として定められています。「労働安全衛生法」では、常時雇用する労働者に対して事業者(会社)が年1回、定期的に労働者の一般健康診断を実施することを義務付けています。それと同時に、この法律は、労働者側にも健康診断を受診する義務を課しているのです。
ちなみに労働者は必ずしも会社側が設定した医療機関で健康診断を受けなければならないわけではなく、自分のかかりつけ医などで健康診断を受けることも可能です。その場合は結果を会社に提出しなければなりません。
ごくまれに、「健康診断の結果は、個人情報だから会社に提出したくない」とダダをこねる人もいますが、法律で定められた項目(身長、体重、視力、聴力、血圧、尿検査、貧血、肝機能、血中脂質、血糖、胸部X線など)のデータは、会社に提出しなければなりません。
もちろん会社側は健康診断の結果について、慎重な取り扱いと個人情報管理の徹底を行わなければなりません。
労働安全衛生法では、労働者の受診義務違反に対する罰則は設けていませんが、裁判例では「事業者は労働者に対して健康診断の受診を職務上の命令として命じることができ、受診拒否に対しては懲戒処分を行う」ことが認められたケースがあります。
つまり1回受診し忘れた程度で処分を受けることはないかもしれませんが、もし何年にもわたって健康診断の受診を拒否し続けている場合は、業務命令違反として何らかの懲戒処分を科せられる可能性があるのです。
健康診断の結果を放置するのはリスクとデメリットだらけ
健康診断を受けた後、異常値が出て産業医や会社から2次検査に行くよう促されているにもかかわらず、受診や治療を拒否していたらどうなるでしょうか?
非常に血圧が高い状態や糖尿病が悪化していることを指摘され、産業医や健診医からもすぐに治療が必要と言われたのにもかかわらず、「医者が嫌いだから」と受診を拒否したり、「薬を飲みたくないから」と治療を断ったりする社員に時々出会います。
例えば高血圧の場合、健診結果で180/110mmHgを超えているような状態であれば、恐らく産業医からは「治療して血圧が下がるまでは残業を免除」もしくは「血圧が下がるまで休業が必要」といった意見が出されることが多いでしょう。
高血圧が非常に悪化した状態のまま働き続けると、先ほどのFさんのような脳梗塞だけでなく、脳出血や心臓疾患、めまい、意識消失といったさまざまな体調不良が起きるリスクが高くなるからです。
糖尿病、不整脈などの心臓疾患、腎臓疾患、肝機能障害、貧血なども、治療していなかったり治療が不十分だったりして高度に悪化している場合は、何らかの就業制限が産業医から意見されることがよくあります。
産業医が就業制限措置を意見するまでの過程では、数年前から「要検査」「要精密検査」「要治療」などと健康診断の結果で指摘されているのにもかかわらず、2次検査や治療を受けず放置した結果、病状を悪化させてしまったパターンが圧倒的に多く見られます。
産業医としては、「もう少し早い段階で治療を始めてくれていたらここまで悪化せず、就業制限をかけなくても済んだのに」と非常に残念な気持ちになります。
先ほど「健康診断を受けることは労働者の義務として労働安全衛生法で定められている」ということを述べましたが、実は労働者は健康診断を受ける義務だけでなく、「自分の健康を保つための努力をする義務」も負っています。これは「自己保健義務」と呼ばれています。
自己保健義務は簡単に言うと「労働者は、業務が提供できるような健康状態を自分自身でも可能な限り整える義務がある」ということです。
過労死で賠償金が相殺された例も
もちろん多くの病気の発症は遺伝や体質、さまざまな環境要因が絡んでいるため、本人の努力だけでは予防できないものです。
しかしもし健康診断で病気や異常が見つかった場合は、会社側は安全配慮義務に基づきそれ以上悪化させないように受診を促したり状態によっては就労を調整したりする一方、労働者側は自己保健義務に基づき速やかに健康を回復するための行動をとらなければならない、ということになるのです。
健康診断で異常値が見つかって産業医面談を行っても、
・「糖尿病で食事を制限するのは嫌だしお金もかかるから、治療はしたくない」
・「酒を飲む楽しみをやめたくないから、肝機能が悪化していても病院には行かない」
などと抵抗し、治療を拒否する社員もまれにいます。
会社側は治療を社員に強要することはできませんが、健康状態が悪化したまま通常業務に就かせることは安全配慮義務に反しますので、当然ながら悪化の程度によって仕事の制限がなされることになります。
さてもし会社が産業医の意見を無視して、その社員の病気が悪化していることを知っていたにもかかわらず、長時間労働などをさせて過労死が発生し、労災が絡んだ労働争議に発展したとしましょう。
この場合も裁判によって労働者側が自己保健義務を怠っていたことに原因があると判断された場合は、労働者側に非常に不利な判決になる可能性があります。
実際の判例では、長時間労働を続けた後に脳出血によって過労死が発生したシステムコンサルタント事件(東京高判平成11.7.28判時1702-88)が有名です。
この労働裁判では会社側の安全配慮義務違反があったと認めたものの、高血圧を自覚しながら治療を受けていなかった労働者側の自己保健義務違反もあるとされ、賠償額が過失相殺によって50%減額されてしまいました。
最近はコロナ禍で自宅勤務が増え、そのせいもあって体重が増えているビジネスパーソンが少なくありません。中高年にとって、体重の増加はそのまま生活習慣病のリスクの増大につながります。Fさんのような悲劇が繰り返されないよう、健康診断や人間ドックにて自分の体の状態を把握し、病気の早期発見、早期ケアを心がけましょう。
[日経Gooday2021年6月4日付記事を再構成]
精神科医(精神保健指定医)・産業医・労働衛生コンサルタント。株式会社朗らかLabo 代表取締役。1992年山口大学医学部卒。精神科医、そして約20の事業所の産業医として、日本経済を支える働く人の心と身体のケアを日々応援&サポートしている。これまでにメンタルケアを担当したビジネスパーソンは累計2万人以上。マインドフルネスやコーチングを活用した心の健康法も、執筆やセミナーなどにて提案している。 著書には『1分間どこでもマインドフルネス』(日本能率協会マネジメントセンター)、『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』(すばる舎・共著)など多数。最新刊は『「会社がしんどい」をなくす本 いやなストレスに負けず心地よく働く処方箋』(日経BP)。
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