143の遺骨で検証 産業革命前のがん患者、定説の10倍
現代では、英国人の半数以上が一生のうちにがんと診断されると言われている。一方で考古学的証拠から、産業革命以前には、がんにかかる英国人は1%程度だったと考えられてきた。
だが、2021年5月4日付で学術誌「Cancer」に発表された論文では、この1%という見積もりは小さすぎた可能性が指摘されている。
研究では、現代のがん検出ツールを用いて、数百年前に埋葬された遺骨を分析した。その結果、産業革命以前の英国人ががんにかかる確率は、これまで考えられていたより少なくとも10倍以上高かった可能性があることが明らかになった。
この研究を主導したのは、英ケンブリッジ大学のピアース・ミッチェル氏だ。同大学の考古学科で古病理学の研究を行うかたわら、英国の国民医療制度(NHS)の病院でがん患者の整形外科手術を担当している。
人類学においてはこれまで、産業革命前には環境中の発がん性物質の量が大幅に少なかったために、英国人のがん発生率は現在よりもはるかに低かったとされてきた。しかし、現代の患者を診てきた経験から、ミッチェル氏はこうした見方にずっと懐疑的だった。
工業化以前の英国に発がん性物質がなかったわけではない。人々はアルコールを日常的に摂取し、薪や石炭を燃やした時に出る汚染物質にさらされ、加齢に伴って細胞が突然変異するリスクも抱えていた。しかし、がんの脅威が著しく増大したのは、16世紀に英国に入ってきたタバコや18世紀以降の産業活動で発生した大気汚染などに含まれる発がん性物質が、人々の日常生活に入り込んでからのことである。
表面だけではわからない
これまでの研究では、産業革命以前の人々ががんだったかどうかを、主に遺骨の目視評価に頼っていた。つまり、特定のがんの広がりを示す特徴的な病変があるかどうかを調べていた。
ミッチェル氏は、過去の時代のがんが過小評価されてきた理由はそこにあると考えている。がんの大部分は軟部組織で発生し、骨に転移するものは骨髄から外側に向かって広がる。そのため、骨の外側だけを見てもわからない部分が多いのだ。
古い遺骨でがんを見つける精度を高めるために、ミッチェル氏と研究チームは、現代の患者の診断に使用しているのと同じCTスキャナーとX線装置を用いて143体の成人の骨を分析した。遺骨は、英国のケンブリッジ周辺にある紀元6~16世紀初頭の6つの中世の墓地から集められた。
チームは、CTとX線を組み合わせたミッチェル氏の判断と、英ピーターバラ市立病院の放射線科医アラステール・リトルウッド氏の所見が一致した場合にのみ、がんと診断した。この二段階の診断方式により、対象となった骨の大半はがんと診断されず、最終的に143人中5人の骨にがんが見つかった。
だがこの数字は、対象となった故人がかかっていた可能性のあるがんを完全に捕捉できてはいないはずだ。現代のがんによる死亡者のうち骨に転移している人の割合は3人に1人から2人に1人であり、CTスキャンで骨のがんが検出されるのは75%程度である。こうした数字を中世の遺骨に適用したところ、産業革命以前の英国人が生涯でがんにかかる確率は9~14%だったと推定された。この値は、従来説の約1%に比べて10倍にもなる。
血液や組織を検査して他の病気の可能性を除外することができないため、今回の研究で確認されたすべての骨病変ががんによるものかはわからない。また、単一の地域で得られたサンプルを用いており、必ずしも中世初期の英国全体の傾向を表しているとは限らない。ただしミッチェル氏によれば、ケンブリッジは当時の英国としては「非常に平均的」な町だったという。
工業化以前の病気の実際
今回の研究は、中世の病気にまつわる固定観念を揺るがすものだ。これまでは、感染症、栄養失調、そして戦争や事故による負傷が、中世の3大疾患だと考えられてきた。
「これは生物考古学と古病理学の分野における素晴らしい一歩です」。生物考古学者であり、古代のがんを調査する研究者組織「Paleo-oncology Research Organization」を率いるロゼリン・キャンベル氏は言う。なお、氏は今回の研究には参加していない。
X線装置を利用できる考古学者は増えてきているが、資金不足や運用上の困難から、CTスキャナーを利用できる研究者は少ないという。より多くの研究者がCT技術を活用できるようになってほしいと氏は願っている。
「研究者が本気でがんの証拠を探し始めたのは、ここ数十年のことに過ぎません」。氏は1つの研究だけで過去のがん発生率を推測することに対しては注意を促すものの、ミッチェル氏の手法をより多くのサンプルに適用すれば、より地域と時代を広げて過去のがんを調査することができると述べる。
ミッチェル氏が最も期待しているのは、この研究が現代医学に与える影響だ。タバコや工場が出す煙、自動車の排ガスなどの発がん性物質が、現在の私たちにどのような影響を与えているかを、科学者たちは知っている。しかし、がんが産業革命以前の社会にどのような影響を与えたかを知ることは、それらの発がん性物質が人間の健康にどのような変化をもたらしたかを定量的に把握するのに役立つ可能性がある。
「臨床医としては、がんの有病率の傾向を知るために、長期にわたるデータが欲しいところです。発がん性物質を取り除くことは、どの程度の影響があるのでしょうか」。また今回の研究は、太陽光線、鉛、室内での火の使用、ウイルス、寄生虫など、非工業由来の発がん性物質の影響をより理解するのにも役立つとミッチェル氏は話す。
両氏とも、すべてのがんがタバコや産業汚染物質などの発がん性物質によって引き起こされるわけではなく、年齢、遺伝、突然変異なども関係している点を強調する。「汚染物質や喫煙を完全に取り除いたとしても、がんは減るとはいえ、なくなるわけではありません」とミッチェル氏は言う。
それでも、古病理学と現代医学を連携させることで、いつの日か「体に良くないあるものが、がんのリスクをどの程度高めたり低めたりするのかを定量的に把握できるようになるかもしれません」と氏は述べる。
たとえそうでなくても、古代の骨のがんの診断を続ける価値はあるとキャンベル氏は言う。「ある程度の不確実性は常にありますが、それでよいのです」と氏は語る。「私たちは、常に明確な答えを得られなくても構わない、と思えるようにならなければなりません」
(文 ERIN BLAKEMORE、訳 桜木敬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2021年5月20日付の記事を再構成]
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