源頼朝像は以前とは「別人」

鎌倉幕府が成立したのは源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年「いいくにつくろう」でなくなったことはよく知られる。複数の現行教科書では欄外で1183年や1185年などの説を取り上げている。

最新の教科書では源頼朝の肖像も以前とは「別人」になっている。約25年前は京都市の神護寺が所蔵する肖像画が一般的だった。「伝源頼朝像」などと表記して断定に慎重な教科書もいくつかあったが、肖像画を載せる場合は神護寺の似絵を採用していた。

一方、現在はほとんどの教科書が木造の「源頼朝坐像」を載せる。山梨県の甲斐善光寺にある肖像彫刻だ。変更は美術史家・米倉迪夫(みちお)氏が神護寺の頼朝像を足利尊氏の弟、直義とした研究などが支持されてきたからだと見られる。

もともとこの座像は長野県の信州善光寺にあった。研究で頼朝像を明らかにした東京大学の黒田日出男名誉教授によると、座像は「頼朝の死後10年以内に妻、北条政子の指示で作られたとの記録が残る」。座像内には文保3年(1319年)の修理銘もある。信州善光寺は2度火災に遭っており、その後に胴体の部分を修復したようだ。

頼朝が信州善光寺の復興の功労者だったことなどからも判断して「座像は頼朝でほぼ間違いない」(黒田氏)。現在、甲斐善光寺にあるのは川中島合戦で武田信玄が持ち去ったためという。

最初の蒙古襲来では台風は吹かなかった

鎌倉時代については蒙古襲来(元寇)に関する記述の変化も発見した。モンゴル軍の襲来は1度目が文永の役(1274年)、2度目が弘安の役(1281年)と覚えた人も多いはず。

蒙古襲来では2回とも台風が吹いて元軍に大きな被害を与えたことが撤退の理由の一つとされていた。約25年前の教科書も同様の記述が多い。一方、現行では暴風雨による損害との記述が弘安の役の解説にのみ登場する教科書が多い。九州大学の服部英雄名誉教授によると「文永の役は現在の暦で11月の終わりにあたる。この時期に九州へ台風が襲うとは考えにくい」という。

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現地での呼び方を積極的に採用