文書類については、エジプト研究所が守り抜いた。フランス人博物学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールが、英国人に渡すくらいなら文書をすべて燃やしてやると脅迫したのだ。サンティエールは、これを燃やすことはアレクサンドリアの大図書館の焼失に匹敵すると言ったという。この策略は功を奏し、英国人は譲歩して、フランス人が記録を保持することを許した。

1798年7月21日、フランス軍とエジプトのマムルーク軍との戦い。戦場となったエムバベからピラミッドまでの距離は、実際には、画家フランソワ・ルイ・ジョセフ・ワトーによる19世紀のこの作品で表現されているよりもはるかに長い。フランス、ヴァランシエンヌ美術館蔵(BRIDGEMAN/ACI)

国家的大事業だった『エジプト誌』の刊行

遠征軍がフランスに戻ってから数カ月後、ナポレオンは、エジプトにおける調査結果を大判の書籍として出版せよと命じた。これは完成までに何年も要する大事業だった。その結果として、ドノンの著書を皮切りに何冊もの本が出版され、古代エジプトの情報を求めるフランス人の欲求を満たすことになった。

1809年までに、この出版事業には執筆者36人と、挿絵の制作に100人もの彫版工が携わった。使われた銅板は900枚近くにのぼり、そこには3000を超える図版が刻まれた。

地理学者のエドメ・フランソワ・ジョマールは、この大事業の制作管理者の一人であり、編集委員会を率いて主題の割り当て、草稿の受け取り、編集を担当した。委員会はまた、この本のために特別に制作された図版が文章とうまくまとまるよう調整を行った。このシステムは、現代における学術誌の制作と大差ないものだった。

委員会はすべての巻を一斉に世に出したいと望んでいたが、すでに皇帝に即位していたナポレオンはしきりに出版を急かした。ナポレオンの気持ちをなだめるために、彼らは1809年から、分冊として逐次刊行することに決める

『エジプト誌』あるいは『フランス軍のエジプト遠征中になされた観察と研究の集成、ナポレオン大帝の勅命により発行』とも呼ばれるこの作品は、全22巻からなり、文章で構成されたものが9巻、図版、挿絵、地図で構成されたものが13巻あった。順次開始された出版は、ナポレオンが権力を失った後も続けられた。

1814年に君主制が復活した後、ルイ18世は、この出版事業の継続を決めた。これが、フランスの国家としての威信を象徴するものとなるのは明らかだったからだ。出版チームは1828年、かつては政府によって極秘扱いされていた地図の出版を最後に、全巻を完成させた。

もっとエジプトを

『エジプト誌』の内容は、古代遺物、博物学、現状の3つに大別され、それぞれにボリュームのある文章と画像で構成されていた。全体の半分以上が過去に割かれており、謎に満ちたファラオの歴史がいかに学者たちの想像力をかきたてていたかを示している。

彼らの未熟な歴史解釈の妨げとなっていたのはヒエログリフを理解できなかったことだった。そのため、内容は年代順には掲載されていない。最初の2巻は南から北へ地理に沿って構成されており、上エジプトのフィラエ島からナイルデルタまでが網羅されている。3巻と4巻では、記事は主題別に並んでいる。

現代の学者にとって、『エジプト誌』の中でもひときわ色あせない価値を持っているのは図版だろう。図版は実物に極めて忠実で美しく、そうした特徴は図版自体が非常に大きいことによってさらに強調されていた。

これらの図版を足がかりとして、ナイル渓谷における学術的な考古学が幕を開ける。地形図はとりわけ見事だった。平面図も、立体図も、断面図も、巨大建造物の正確な測量値もあった。

その目的は、エジプトへ行くことなく、研究を進めることができるようにすることだった。掲載された建造物のうち、20ほどがその後失われ、それらの外観に関して今も残っているのは、「解説」に記された数値と説明文だけとなってしまった。

次ページで、当時の人々を魅了したエジプト学に関連する図板の数々をご覧いただこう。