ナポレオンの野望が火付け役? 古代エジプト史の解明

日経ナショナル ジオグラフィック社

ナショナルジオグラフィック日本版

ジャン=レオン・ジェローム作「スフィンクスの前のナポレオン」。古代エジプトの栄光をフランスの力の誇示に利用しようともくろむナポレオンの思いが見て取れる。米カリフォルニア州サン・シメオン、ハースト・キャッスル蔵(AKG/ALBUM)

1798年7月上旬、ナポレオンが率いるフランス軍はアレクサンドリアに上陸し、またたく間にこれを占領した。フランス軍はカイロへと進んでピラミッドの戦い(エムバベの戦いとも呼ばれる)に勝利し、7月21日に街を奪取した。

1798年8月、カイロでエジプト研究所が正式に発足。モンジュが所長に選任され、ナポレオンが副所長となった。この研究所は、数学、文学と芸術、博物学と物理学、政治経済学という4つの部門から構成されていた。設立決議書には、同研究所が目指すのは、エジプトの自然、経済、歴史を調査することだけでなく、エジプトにおいて啓蒙思想の原則の推進に貢献し、同国政府を支援することであると記されている。

当初、フランス人の学者たちはカイロの研究所本部に配属されていたが、やがて国内各地を飛び回ってそれぞれの任務をこなす人も出てきた。メンバーの一人ドミニク・ヴィヴァン・ドノンは、貴族かつ外交官であり、性的に奔放な小説を書く作家であり、また優れた芸術家でもあった。

しかし、地中海沖に潜む英国海軍によって、エジプト沖に駐留するフランス艦隊が撃沈されると、ナポレオンとその軍隊は身動きがとれなくなってしまう。

1799年、もはやエジプトにいても自分にとって益はないと判断したナポレオンは、ジャン・バティスト・クレベール将軍に軍を任せてフランスに戻った。

1802年、ドノンは『上下エジプト紀行』を出版して大成功を収めた。ドノンの生き生きとした散文には、軍事作戦についての物語と、はるか遠い土地の神秘的な古代遺跡の描写とが織り交ぜられていた。ドノンが描いた挿絵は、当時としては驚くべき出来栄えだった。

『上下エジプト紀行』には、それまでのどんな本よりもたくさんの挿絵が掲載されていた。作品の数、大きさ、質だけでなく、題材の面でも前例がなかった。メムノンの巨像、ハトホル神殿、ギザのスフィンクスといったエジプトの巨大建造物が、これほど詳細に描き出されたのは初めてのことだった。その個性と美しさはフランスを魅了し、エジプトについて知りたいという人々の欲求はさらに高まった。

ドノンの作品はナポレオンにささげられ、その本はフランスの世論を一変させた。軍事作戦で失敗した人物とみなされていたナポレオンは、このおかげで古代ギリシャやローマに匹敵する古代エジプトの力と壮大さを世に知らしめた指導者へと変貌を遂げた。

「アレクサンドリアの大図書館の焼失に匹敵」

1799年にドノンが上エジプトから戻った後、ナポレオンはさらに多くの学者をこの地に送り込み、エジプトの古代遺跡の調査にあたらせた。軍事的な混乱が続いていたにも関わらず、フランス人学者たちは遺跡まで護送され、作業の間も護衛がついたため、比較的安全に調査を進めることができた。彼らは多くの記録を取り、さまざまな遺物を収集し、入念な観察と詳細な測定を行った。

カイロに戻った学者たちは、出国前にナポレオンから命じられていた通り、収集品を持ってすぐにフランス行きの船に乗り込もうと考えていた。

ところがフランスが英国に敗れたことにより、状況が変わってしまった。

英国の司令官は、エジプト研究所が集めた遺物をすべて引き渡すようフランスに要求した。その中には、フランス兵が1799年にロゼッタで発見した、文字の刻まれた黒い石碑も含まれていた。見た目こそ地味ではあったが、ヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字が記されているという点で興味深い遺物だった。フランス人はこの石を含めたすべてを手放さざるを得ず、その結果、有名なロゼッタストーンと数々のエジプトの宝物は英国人の手に渡ることとなった。

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国家的大事業だった『エジプト誌』の刊行