
プトレマイオス・カエサル、「父と母を愛する神」とも呼ばれたプトレマイオス15世は、弱冠3歳でエジプト王の座に就く。その数カ月前に、父親とされるユリウス・カエサルが暗殺され、母親のクレオパトラ(クレオパトラ7世)はエジプト女王である自らの地位を確実なものとするため、息子をファラオの座に据えた。
ギリシャ語の「カエサリオン」または「小カエサル」という名で知られることの多いプトレマイオス15世は、母親のクレオパトラが自殺した直後、紀元前30年に17歳で処刑されてしまう。アレクサンドロス大王以来、数百年間エジプトを支配したプトレマイオス朝の幕を引いた、母と息子の悲劇の物語──。
日常化していた骨肉の争い
カエサリオンの物語は、祖父だったプトレマイオス12世が、最年長の娘クレオパトラとその弟プトレマイオス13世を、それぞれ18歳と10歳で共同後継者にしたことから始まる。ふたりは、ローマの後ろ盾を得てエジプトを治めることになっていた。
紀元前51年、父親の死後にプトレマイオス13世とクレオパトラは形の上で結婚したが、ふたりの間には夫婦としての愛も、姉と弟としての愛も存在しなかった。プトレマイオス朝では、権力の座をめぐる骨肉の争いが代々繰り返され、兄弟同士、あるいは親と子が常に対立していた。
2年後、プトレマイオス13世の側近らは、クレオパトラを倒してプトレマイオスを単独のファラオにしようと画策する。
その頃、ローマはローマで自分たちの権力闘争の真っ最中だった。いずれも偉大な軍事的英雄であるユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが対立し、それぞれが同盟国を探していた。
ポンペイウスはエジプトを味方につけようとして、姉のクレオパトラではなくプトレマイオス13世を支持することを決めた。そこでクレオパトラは首都を脱出し、遠く離れた場所で自分の軍を構築して機が熟するのを待った。
紀元前48年、ファルサルスの戦いでカエサルに敗れたポンペイウスは、アレクサンドリアに逃れる。ところが、プトレマイオス13世はポンペイウスを裏切って処刑し、その首をはねて、エジプトに乗り込んできたカエサルに献上した。これを見たカエサルは心を痛め、不快感をあらわにしたという。古代の歴史家プルタルコスは、西暦1世紀に次のように書き残している。「ポンペイウスの頭を差し出されたカエサルは、衝撃のあまり顔を背けたが、ポンペイウスの印章指輪だけは受け取り、涙を流した」
若きファラオのこの大失態が、クレオパトラとその軍に好機をもたらした。クレオパトラはアレクサンドリアに忍び込み、カエサルと密会してその心をつかむことに成功する。カエサルがクレオパトラの王位を支持すると、これに怒ったプトレマイオス13世の支持者たちが蜂起したが、カエサルの軍に倒され、プトレマイオスは殺害された。
カエサルは21歳のクレオパトラをエジプトの王座に就かせ、もうひとりの弟プトレマイオス14世との共同統治という形を名目上は取った。ローマとの同盟を確実にするため、クレオパトラは自分より30歳年上のカエサルをエジプトに招待した。
ローマとエジプトの子
カエサルは、エジプトに2カ月間滞在してクレオパトラのもてなしを受けた後、ローマへ戻っていった。このときにクレオパトラは妊娠し、紀元前47年に男の子(カエサリオン)を生むと、父親はユリウス・カエサルであると公言した。エジプトの司祭らも、アメン神がエジプトの王子の父親となるために、当時世界で最も強大な権力を持っていたカエサルという人間の姿で現れたのだと説いて回った。
紀元前46年末、今度はクレオパトラがカエサルの招きに応じてローマを訪れた。きらびやかな宮廷の従者を大勢従えたクレオパトラが、カエサリオンを連れてローマに到着すると、ローマ人は口々に、ユリウス・カエサルにそっくりの子どもだと言った。
カエサルの部下だったマルクス・アントニウスも元老院に対して、カエサルが周囲の者にカエサリオンを自分の子として認めていると証言した。それが事実であれば、カエサリオンはこのとき唯一生存していたカエサルの子どもだったことになる。カエサルには他にユリアという娘がいて、ポンペイウスと結婚していたが、紀元前54年、出産時に亡くなっていた。