沈んだ体は、まっすぐ海底へ降りていく。しばらくすると、陸上の死体と同じように膨張して浮いてくることもあるが、いつもそうなるとは限らない。深い湖や海では、二度と浮き上がらないことがある。深い水の底では、水温が低いため死体の腐敗が進まず、さらに水圧が高いので体の膨張が抑えられ、体は浮き上がることができない。水に沈んだままの体は、組織が変性して死蝋(しろう)化(ろう状あるいはせっけん状になること)し、数年、時には数百年も低酸素の環境でそのまま保存される。

ヤゼジアン氏が検視したセイリッシュ海の足は、まさにこの死蝋で覆われていた。つまり、長い間海底にとどまっていたことを示している。これによって、体の他の部分はどこにあるのかという謎の説明がつく。海底に沈んだまま今もそこに横たわっているのだ。

では、なぜ足だけが浮かんできたのだろうか。

足だけが浮かび上がってきた理由は

体を残して足だけが漂流した理由を理解するには、水中で人間の死体がどのように分解されるのか、足はそんなに外れやすいものなのかを知る必要がある。米国では、複数の法医学研究所で死体の分解過程を研究しているが、いずれも陸上での研究ばかりだ。誰も、海まで死体を運んで行って水中に落とした者はいない。

だが、あきらめるのはまだ早い。カナダでは2007年夏、サイモン・フレイザー大学の法医学者ゲイル・アンダーソン氏が、カナダ警察研究センターの依頼で、殺された被害者の体が海中でどのくらい早く分解するかを研究していた。ただし、倫理規定により人間の死体は使えなかったため、ブタの死体を使用した。ブタは人間の体と大きさが同程度で、生物学的にもよく似ていることから、法医学研究では人間の死体の代わりに使われることがある。

偶然にも、アンダーソン氏はこの実験をセイリッシュ海で行っていた。実験の6カ月後には、すぐ近くで第3の人間の足が見つかっている。アンダーソン氏のチームがブタの死体を海へ沈めると、それはすぐに約94メートル下の海底へ到達した。

その後ブタに起こったことは、とても美しいと呼べる光景ではなかった。突如出現したごちそうに、大量のエビ、ロブスター、カニが、暴徒のように群がってきたのだ。「お尻の穴や、目、鼻、口など、体のありとあらゆる開口部から入り込んで食べつくしてしまいました」。まるで、シーフードレストランに並ぶ食材たちが逆襲してきたかのようだった。

アンダーソン氏は、さらに水深が深いところでもブタを沈めて実験を続けた。すると、なかには4日もたたないうちに骨だけにされてしまった死体もあった。

問題の足の部分だが、海の掃除屋である甲殻類などは、骨やその他の堅い部分は避けて、周りにある柔らかい組織だけを食べることがわかった。そして、股関節の堅い関節と違って、足首はじん帯など主に柔らかい結合組織でできている。つまり、靴を履いたままセイリッシュ海に沈んだ死体は、海の生物に食べられて足首の関節が外れ、体から離れてしまったと考えられる。

実際に、セイリッシュ海で見つかった足はすべて、海洋生物に食べられたり分解されるなどした自然現象によって体から外れたように見えると、ヤゼジアン氏は言う。誰かに足を切られたわけではないので「『切断された』という言い方はしないでください」と同氏は指摘する。検視の結果、どの骨にも切断された跡は見られなかった。

さらに、ここ10年ほどの間に製造されたスニーカーは、ほぼ必ずと言っていいほど水に浮く。靴底にガスを充てんしたエアソールが一般化し(実際、セイリッシュ海のスニーカーにもこのタイプが見られた)、靴底自体に使われるスポンジ材も軽量化が進んだ。

次のページ
海の流れをシミュレーション