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青春のギャラリー

35歳で欧州留学、模写に没頭 草花の声聴く晩成の画家名古屋画廊 中山真一

2021/6/11

青春のギャラリー

久野和洋《水溜まる》(1985年、145.5×89.4センチメートル、油彩・キャンバス、東京都現代美術館蔵)
才能や感性を鋭く問われる画家らアーティストは、若き日をどう過ごしたのか。ひとつの作品を手がかりにその歩みをたどる連載「青春のギャラリー」。ガイド役は名古屋画廊社長の中山真一さん(63)です。中山さんは「いつの世もアーティストが閉塞感を突破していく。自分を信じて先人を乗り越えていく生き方は、どんな若者にも道しるべを与えてくれるのではないか」と語ります。(前回は「ベニヤ板にクレヨンで描いた17歳 一流の大人に導かれ」

気がつけば、濃密といえどもゆったりとしたこの深い画面空間に、すっかり心を遊ばせていた。作者の造形の技量はいかばかりか。地に草花が生えている。そのさまを描くのは、もとより自然なことであろう。生きとし生けるものたちにひとしく慈しみの目をむけるのは、私たち日本人の心性でもある。それを見習ったのはモネら印象派の画家たち。彼ら以前、西洋では花は切って花びんにさして描くものであった。作者の心情ゆえか、やや暗い画面。モニュメンタルな要素はなにもない。それゆえなのか、みんな生きている。共生している。コンクリートの壁さえ、花や草、水たまりと仲がよさそうだ。描かれたパーツはすべて画面になくてはならぬもの。感動とはなにか。絵になるとはどういうことか。なにげない視覚が永遠の相をとどめえるという絵画の不思議が、この画面のなかにある。

ゴッホ展に目を見張った20歳

この作品《水溜(た)まる》(1985年、油彩・キャンバス)の作者である久野和洋(くの・かずひろ)は、1938年(昭和13年)に名古屋市で生まれた。地元で働きながら春陽会系の洋画研究所にかよう。描いていくほどに絵画への思いはつのるばかり。そんな日々のなか、20歳となっていた58年11月、ファン・ゴッホ展をみるために上京する。夜行列車の往復で1泊4日。ゴッホについては、もともと絵画にもましてその生き方につよい関心をいだいていた。実際に作品の数々に触れると、たとえようもない感動をおぼえることに。故国オランダでの修業時代に自身の生活圏で「耕す人」など関心のふかいモチーフにとりくんだという素描類をはじめ、彼の実人生が凝縮したかのような制作、とくに自画像には目を見張った。

画家をめざすしかない。翌月には再度上京して下宿生活に入った。複雑な家庭のなかでひとり画家志望に反対しなかった母が、こっそり布団を送ってくれる。光風会美術研究所にかよいだす孤独な身であったものの、布団のなかは温かった。どんなことがあっても一生絵を描きつづけよう。つらいことの多かったこれまでの人生経験は、すべて制作の原動力に変えていこう。心に誓った。3年後、23歳のときに武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。山口長男や麻生三郎らに洋画を、のち彫刻科に編入して清水多嘉示らに彫刻を学ぶ。授業の一環であった奈良・京都への古美術研究旅行は思いのほか楽しかった。自分はいにしえのものが好きと知る。

また、1年生のときにブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)で青木繁《海の幸》をみてふかい感銘をうけた。青木の郷里・福岡県久留米へは2年連続で命日に墓まいりに行く。そのさい坂本繁二郎の作品にも触れて、以後2人をいつまでも意識していくこととなった。上京以来アルバイトで生活費や授業料をすべてまかなう。優秀な学生ということで、卒業とともに副手、のち助手、非常勤講師となって大学にのこった。麻生に影響をうけたつよい心情性が前面にでがちな制作をつづけるなかで、安井賞展に2度入選(1967、73年)。だが、徐々にそうした作風が自分本来のものではなさそうだと違和感をおぼえていく。

「麻生調」は当時の美術界でブームであった。まして麻生の教え子たちなら、一目で麻生の影響とわかるような制作に終始する者が少なくなかった。麻生芸術がどんなに偉大でも、いつまでも借り物ではなにも始まらない。若き日々を無駄にしてしまう。自分自身の絵とはなにか。久野は懸命に思索をつづける。

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